新国立劇場「蝶々夫人」
(文中の敬称は省略しています)

●1998/04/08 新国立劇場もオープニングシリーズが終わって、98年度のシーズンが始まった。オペラ部門で皮切りとなるは、プッチーニの「蝶々夫人」で、雨模様の中、その初日の公演を見に行ってきた。

 まず演出について。栗山昌良の「蝶々夫人」は3回目だけど、今回の新国立劇場版は新演出と言って間違いないだろうと思う。舞台装置は、新国立劇場の舞台機構を使った新しいものを使っている。オーソドックスで細部にまで神経を凝らした演出はいかにも栗山昌良らしく、基本的な流れは以前の演出を踏襲している。しかし昨年12月に神奈川芸術フェスティバルで感じた不満の多くは解消されていたので、その意味では確かにレベルアップしている。しかし新しい視点が加わったとか、斬新な指向が見られるとかを期待するとガッカリするのは間違いない。前向きな意味で見るべきものに乏しい演出で、ハッキリ言って平々凡々とした内容だろう。蝶々さんをはじめとした人間像の描き方という意味では、バウントニー、三谷礼二、井田邦明演出の素晴らしさとは比べようもない。

 さらに輪をかけて問題だったのは、タイトルロールの林康子である。まず音程が不安定で微妙にずれているし、オケとの呼吸も合わないところが散見され、さらに声のコントロールが利かないみたいで、ただただ大声を張り上げるばかり。そのため微妙な心理表現は皆無に等しくなってしまった。演技力という点でも問題で、悲しいシーンでの泣き声が笑っているように聞こえるし、オーバーなジェスチャーは「狂乱の場」かと思ってしまう。第2幕以降は若干改善されたし、ところどころで年齢を感じさせない若い声や豊かな声量を聴かせるんだけど、トータルで考えると蝶々さんを歌うのは苦しくなっているのは否定できないだろう。佐藤ひさらのような素晴らしい蝶々さん歌いがいる現在、過去の名声だけでタイトルロールを歌わせる新国立劇場の選択眼を疑わざるを得ない。

 その他の歌手では、ピンカートンを歌ったボルティーヤは声量も豊かで表現力もなかなか。ゴローを歌った松浦健も、主役級を食う出来映えだったが、その他の歌手は聴くべきものに乏しいと言わざるを得ない。シャープレスのオーカランドは声量が足りないためか存在感、説得力に乏しく、スズキ(郡愛子)も声がでていない感じ。そしてこの日がお披露目の新国立劇場合唱団は、まぁ、手堅い出来映えと言って良いだろうと思う。「蝶々夫人」はあまり合唱の比重が大きくない演目なので、是非、ヴェルディなどで実力を発揮して欲しい。

 管弦楽は、新星日響ということなので、あまり期待していなかったんだけど、意外や意外、なかなかドラマチックでプッチーニの音楽を的確に盛り上げていった。個々のパートではポカもあったけど、全体的には大健闘と言って良いんじゃないだろうか。弦楽器もそれなりに綺麗な音を出していたし、音色の豊かさもも感じさせてくれた。その背景には、菊池彦典の的確なタクトがあったことは間違いないだろうと思う。しかし全体的に見ると、見るべきもの、聴くべきものにに乏しい「蝶々夫人」だった。カーテンコールはやたらとブラボーが飛んでいたけど、「その筋の方々」がヤラセでやってるんじゃないのかと邪推してしまった。ところで・・・この日の公演を見に行った方に伺いたいんだけど、演出家はカーテンコールに登場しましたか? 私が見た限りではステージ上で演出家の姿が確認できなかったんだけど・・・。



 あと、この「蝶々夫人」公演プログラムの巻頭に、オペラ芸術監督・畑中良輔の「開場記念公演を終え、新シーズンを迎えて」という文章が掲載されている。そのタイトルの通り、オープニング3公演の総括と、今後の方針を簡潔にまとめたものである。このような方針が、これまで出なかったのが不思議なくらいだけど、定期的に新国立劇場の方向性を示していくことは絶対に必要だと思う。その意味ではこのような文章の掲載は歓迎すべき事だけど、内容的にはとても残念と言わざるを得ない。

 まず「建・TAKERU」について「これを『皇国史観』に貫かれた作品ではないかとの批判も厳しく、制作意図とは少し違った受け取られ方をしたのは残念なことでした。いずれ改訂版を検討し、團氏のすぐれた音楽と共に再度の上演に備えたく思っております。」と書いている。これを読んで感じたことは、一度始めてしまった「公共事業」は、時代遅れになっても中断できないのと同じだなぁ・・・ということ。あれだけ時代遅れで内容皆無な音楽を、どのように蘇生させるというjのか。また内容的には皇国史観に基づいているのは明らかで、そのことに対する自覚に乏しいのも救いがたい。

 また今後については「まだ産声をあげて一年足らずのこの劇場としては、昨今の欧米における先鋭的な演出(中略)のような『読み替え』を行うのは、基本的レパートリーが確立したあとのことと考えております。」 ここらへんは考え方の相違だろうと思うけど、「先鋭的」な演出が好きな私でも「先鋭的」なら何でも良いと思っているわけではない。古典的・オーソドックスなものでも良いものは良いのである。基本的に、新旧問わず、その時代で最も良いものを取り入れる柔軟な思考が求められているのであり、W・ワーグナーや團伊玖磨などメームバリューだけで過去の人となった演出家や作曲家、歌手を採用する姿勢に問題があるのだ。残念ながら、この畑中良輔氏の文章を読んだら、新国立劇場の将来にますます期待が持てなくなってしまった。