Concert Diary in May

■文中の敬称は省略しています
■各タイトルの日付は、掲載日を表しています


あっ!

 ・・・という間にGWも終わって、今日からお仕事。やだな〜、・・・休みたい、行きたくない〜。

 さて、私はGW中はどこにも行かずに、ウチの近所を徘徊していた。一日一回はタイ料理か沖縄料理のお店に入って南の島のことを思い出し、コーヒーショップでぼんやりと道行く人を眺めたり、のんびり〜のんびり〜と過ごしてしまった。いや、本当はこのホームページにもブログを導入しようと思って、そのCGIの動作確認までしていたのだが、その後のカストマイズがめんどくさくて放置中である(^_^;)。そんなワケで模様替えを期待していた皆さん、ごめん。この調子だと、何時になるかわからんわ(^o^;)。

 そんな中、昨日、インターネットでe+のページを見ていたら、ウィーン国立歌劇場のキャンセル分が再発売されていた。もちろんE・F券は無かったけれど、「ドン・ジョバンニ」のD席をゲット。35,000円はイタイが、グルベローヴァも出演するし、東京文化会館だし、値段なりの価値はあると判断した。対して「フィガロの結婚」は、NHKホール、・・・この値段では見に行く気がしない。エコノミー券が出回れば別だけど、このホールではウィーン国立歌劇場管弦楽団のホントの音は楽しめないだろうと思う。

 この先もe+あたりでキャンセル分の発売があると思うので、チケットを探している人は要チェックだが、・・・・e+で出回っていた席を見ると3階サイド2列目あたりがA席だったりする。この席に54,000円は払えないよなぁ。キャンセルされた席には、それなりの理由もあるのです。(04/05/06)



チョン・ミョンフン&東京フィル

 いま、バレーボール女子のオリンピック予選の真っ最中。久しぶりにテレビでバレーボールの試合を見たんだけど、・・・変わりましたね〜ルール。ラリーポイント制になったのは知っていたんだけど、リベロが入って7人制になったのね〜、知らなかった。それにテクニカルタイムアウトというのが出来ているんだけど、これってテレビ放映のCMのために設けられたみたいな感じだなぁ。まぁ、時代とともにルールが変わるのは良いとしても、ここまで大きく変わったスポーツも珍しいんじゃないだろうか。

 さて、5月7日はサントリーホールで行われた東京フィルの定期演奏会に行ってきた。先日の新国立劇場「ロミオとジュリエット」では残念な演奏内容だった東京フィルだったが、この日の定期はチョン・ミョンフンの登場。ソリストにはエリーヌ・グリモーという豪華な顔合わせである。さすがに演奏のテンションは、高いものに仕上がった。

 まず前半はラヴェルのピアノ協奏曲。グリモーというと私がクラシック音楽を聴き始めた頃にデビューしたピアニストで、当時はピアノの妖精?みたいなキャッチフレーズだったように思う。もちろんあれから年月が過ぎ、グリモーもシックなドレスで大人の雰囲気を漂わせてステージに登場。オケと噛み合わないところもあったけれど、まずは綺麗な演奏を聴かせてくれた。ただ、ピアノの音だけをとってみれば、いささか平板な印象がぬぐえない。音色の美しさ、多彩さという面で、もう少し磨きをほしいかなぁ。

 後半はマーラーの巨人。例によってチョン・ミョンフンは、1stVn=20人〜Db=12人という巨大編成で、ステージ上は人がいっぱい。ただし、「人数の割には音が薄く感じた」というべきか、それとも「人数が多くても透明感を失わなかった」というべきか微妙なところだけれど、個人的にはネガティブな印象の方が上回ってしまった。金管が転けるところも散見され、オケのテンションの高さが、演奏水準の高さと必ずしも比例しなかったのが残念。それにチョン・ミョンフンの指揮なんだけど、なんかマーラーとの相性はどうなのかなぁ??などと思ってしまった。盛り込まれた様々な楽想がバラバラに聞こえてしまうという感じで、曲全体の統一感がいまひとつ。もちろん一定の水準はキープしていたので、その点は誤解なきように。ただ、チョン・ミョンフンというと、もっと高いレベルを要求したくなるのです。(04/05/10)



ベルティーニ&都響定期

 この週末、カメラを持って近所を散歩した。家の前の公園に行ったら、数匹の猫がいた。そのうち三匹は、白黒ブチの模様が共通なので、兄弟(姉妹?)に違いない。そのほかにもキジトラの猫とトラ猫が一匹づつ。最初は私のことを警戒していたんだけど、猫たちも徐々に慣れてきて、近くに寄ってくるようになった。猫と戯れている時間は至福だにゃあ!

 そして猫たちの写真を撮っていると、公園の中をベルを鳴らしながら走ってくる自転車がっ!猫たちの視線が、一斉に自転車に注がれ、自転車を降りたオジサンの足下にまとわりつく。オジサンは私の視線をものともせず、猫たちのご飯の用意を始めた。猫はご飯にまっしぐら。・・・・私は、ウチの近所で猫にご飯をあげている人を、少なくとも3人、知っている。近所に住んでいる猫の生態を写真に納めるのが、次の目標である。

 さて、先週の13日(木)は、都響のサントリーホール定期。指揮は、都響音楽監督として最後の定期演奏会となるガリー・ベルティーニだ。それにしても、都響の看板指揮者の登場にもかかわらず、会場には空席が目立った。全体の7割程度の入りじゃなかっただろうか?他の指揮者ならいざ知らず、ベルティーニに限ってこのような観客動員というのはマズイだろう。

 曲目は、最初にノアム・シェリフ作曲「アケダ」。シオニストに暗殺されたイスラエルのラヴィン首相を悼んで作曲された曲らしいが、いささか複雑な心境で聞かざるを得なかった。まぁ、この点についての多言はさけるが、中東の平和を願うのであれば、ラヴィンよりもっと先に悼むべき対象があるはずだろうに。2曲目のモーツァルト交響曲第41番は、すさまじい快速特急。まるで「ルスランとリュドミュラ」を聞いているような感じなのダ。たしかにスリリングで面白い演奏で、都響もよく着いていったが、感動云々とは別世界の演奏だった。

 後半はドビュッシーの「イベリア」とラヴェルの「ラ・ヴァルス」。これは良い演奏でしたね。都響らしい弦楽器の厚さと音色の豊かさが前面に出て、情熱的な演奏に仕上がった。ただ、もう少し力を抜いた感じの余裕がある演奏の方がワタシ的には好みかも。(04/05/17)



宇宙の鳴動 〜 ベルティーニの千人の交響曲

 すごい演奏を聴いてしまった。目頭が熱くなるほどの感動を味わったのは、久しぶりである。実はベルティーニ&都響のマーラー・シリーズは初めて聴いたんだけど、なんで1番〜「大地の歌」を聞き逃してしまったんだろう後悔の念もある。しかしその「後悔」以上に、この入魂の演奏に打ちのめされてしまった。

 もちろん、これだけ巨大な編成の曲である。無傷の演奏ではなかった。前半はテンポがかなり速く、オケと合唱のズレも気になったし、オケの荒さも感じさせた。しかし、演奏が進むにつれてオケ・合唱・独唱がベルティーニのタクトのもとで有機的な一体感が生まれてきた。有機的という言葉が相応しい生命感溢れる演奏が生み出したものは、感動のひとこと。あぁ、残念なのは、この演奏を称えるべきボキャブラリを、私が持ち合わせていないことである。

 さぁ、9番はどんな演奏になるのだろうか? 今回のベルティーニの来日公演は、テンポの速さがちょっと心配だが、そこはやはり現代最高のマーラー指揮者!都響音楽監督最後の公演に相応しい名演奏になることを期待したい。(04/05/20)



惜別 〜 ベルティーニ&都響「マーラー 交響曲第9番

 マーラーの交響曲第9番という曲は、たぶん多くのクラシックファンにとって、特別の思い入れがある曲だろうと思う。作曲者自身の死生観が、ここまで深く音楽化されている例が、他にあるだろうか?実際に、マーラーにとってこの曲は、完成された最後の交響曲となったのは周知の通りである。この曲を聴いて「言霊」という言葉を思い出した。言葉には魂があって、発した言葉が事実になるという意味だけれど、もし「音霊」という言葉があるとすれば、この曲ほど魂が込められている音楽は、他にはないんじゃないだろうか・・・そう思った。

 ライヴでの名演奏には、バーンスタインが1985年にイスラエル・フィルと来日した際の9番が伝説的な名演奏とされているけれど、残念ながらその頃、私はまだクラシック音楽に目覚めていなかった。その後、グラモフォンから発売されたバーンスタイン&アムステルダム・コンセルトヘボウ(ACO)とのライヴ録音が、私がこの曲を知るきっかけとなり、今なお、それが私の最上の演奏である。もちろん、いくつものライヴ演奏も聴いてきた。若杉&都響やインバル&都響はもちろん、小澤」&サイトウキネン、井上&NJP、そしてベルティーニ&ケルン放送響も聴いたけれど、残念ながらこのバーンスタイン&ACOの録音を上回るものはなかった。今日、ベルティーニ&都響のライヴを、横浜みなとみらいホール聴いた。ベルティーニが都響の音楽監督としてタクトをとる最後の演奏会である。そして、この演奏を聴いて、マーラーの9番で、初めて録音を超える実演というものに出会った。

 チケットはソールドアウト。満員の聴衆を迎えたみなとみらいホールは満員。開演の時間となり、ベルティーニは大きな拍手で迎えられ、3段重ねの指揮台に登る。ベルティーニは指揮台の上でしばし瞑想にふけり、会場の求心力は指揮台一点に集まる。静寂の中でベルティーニがタクトを持つ。その動きに伴って音楽が奏でられる。その音が私の耳に届いた瞬間から、すでに私の目頭は熱くなっていた。そうだ、これがマーラーの9番の音なんだ。これまでライヴ演奏で見つけることのできない音だったんだ・・・そう思った。滋味深く優しい音色。人生の晩年を迎え、枯淡の域に達し、死を迎えるもののみが達し得る境地・・・・それが、この優しく美しい音色の乗って奏でられる時をすーっと待っていたのかもしれない。

 そして、この先の音楽をいかにして書こうか?正直言って、私自身のボキャブラリの貧困さと、また向き合わなければならない。しかし、私がコンサートに通うようになって、これほど心動かされる演奏と出会ったのは何回目だろうか。たぶん私の2,000回近いコンサート体験の中でも、ベストテンに加えるべき演奏だったことは間違いない。この曲は、やはり第4楽章が山場である。この楽章の出来が、この曲の出来そのものを左右する。そして、今日の演奏は、私が聴いたすべての曲のアダージョ楽章の中でも、最上のアダージョだった。死を迎え、惜別の情を伴いながら、これまでの人生を振り返るかのような音楽。その調べから想像するに、充実した幸せな人生だったに違いない。まるで、ベルティーニと都響のことを謡うかのように。

 今日のベルティーニ&都響の演奏を聴いて、音楽の中には「音霊」がある、・・そう思った。「音霊」という言葉の是非はともかくとしても、この会場にいた人の多くが涙を流し、惜別を惜しんだ。緊張感は全くとぎれることがなく、最後の音がホールの余韻となって消え去り、静寂がホールを満たす。そして、何秒たっただろうか。大きな拍手がホールを支配する。ベルティーニは何度もカーテンコールに応え、オーケストラとともに健闘を称え合う。本当に素晴らしい演奏だった。果たしてこの先、マーラーの交響曲第9番で、これを超える演奏に出会えるだろうか?もし、願いが叶うのであれば、再びベルティーニと都響のコンビで聴きたいものである。(04/05/30)



風が強い日に

 今日は朝から風が強い。近くのコーヒーショップに向かうまでの道のりだけでも、木の枝は大きく揺れて、空き缶が道端を転がり、その音がけたたましく響く。

 さて、昨日の演奏、マーラーの9番・・・、いま思い起こしても素晴らしい演奏だった。ベルティーニのテンポは中庸で、特に新しいアプローチはなかったと思うけれど、彼の作り出す音楽は実に自然な呼吸をしている。著名な人気指揮者でも、こういう曲は実に難しく、音楽の流れがぶちぶちに切れてしまうことが多い。諧謔的な音楽や険しい音楽が錯綜するマーラーだが、それを統一的にまとめることが出来ないと、音楽の横のつながりが途切れてしまうのだ。そうするとマーラーの音楽は途端に口を噤んでしまう。その意味で、ベルティーニは現代最高のマーラー指揮者だろうと思う。彼はいままで何回、マーラーの9番を振ったんだろう。そして、そのベストの演奏は? 彼に問うても答えを返してくれるとは思えないが、少なくともいえることは、ベルティーニは都響と出会うことによって、日本のマーラー演奏史を画する伝説的な演奏を行ったということだろう。

 さて、先々週から仕事が忙しくなって、読響定期と紀尾井シンフォニエッタはチケットを無駄にしてしまった。なんとか行くことが出来た、新国立劇場「マクベス」やアルミンク&NJP、ベルティーニ&都響のプロムナードコンサートなどは、まだ何も書いていない。いまさら書いても・・・という思いが強いので、どうなるかわからない。「旅のアルバム」は、もしかしたら近日中に更新するかも。

 強い風に乗せられて、雲が流されている。もうすぐ東京も梅雨入り、そして夏がやってくる。夏の飛行機は予約した。まだ見ぬ島々への思いをはせつつ、今の忙しさを乗り切ることにしよう。明日からもう6月だ。(04/05/31)