Concert Diary in July

■文中の敬称は省略しています
■各タイトルの日付は、掲載日を表しています



ファビオ・ルイージ=N響


 7月3日のN響オーチャード定期は、1959年イタリア生まれの若手指揮者、ファビオ・ルイージの登場である。ルイージは、95年の東フィル定期に初登場したときに聴いたことがあるが、その後も何回か来日を重ねているらしい。会場は、9割程度は入っているようだが、3階席ではバルコニー席の後部に空席が目立った。

 さて、プログラムは脈絡の感じられないもので(^_^;)、最初にヴェルディ「ナブッコ」序曲、ピアソラ:バンドネオン協奏曲、ブラームス交響曲第1番というもの。演奏全体を通じて感じたことは、そこそこ巧いし、N響ならではの重量感、音の厚みも感じさせるんだけど、どこなくツメの甘さを感じさせる演奏だった。旋律の歌わせ方は巧いし、そつなく演奏しているんだが、どことなく緊張感に欠けているというべきなのだろうか。ブラームスの交響曲では、随所でルイージの特徴的なドライブがあったし、最終楽章はかなり熱を帯びた演奏を聴かせてくれたんだけど、感動になかなか結びつかなかったのは、アンサンブルの精度の問題だったと思う。

 さて、この日の演奏ではちょっとしたトラブルがあった。1曲目のヴェルディが終わり、2曲目のバンドネオン協奏曲用のステージ作りが始まった。バンドネオン用のマイクや譜面台、ハープなども用意されて、ステージ上は準備万端、あとはソリストと指揮者の登場を待つばかりとなったのだが、・・・・・・1分・・・・2分・・・・3分・・・ぜんぜん出てくる気配も、始まる気配がない。おかしいなと思ったのだが、ついにはオケがステージから引き上げてしまった。そこで会場にアナウンスが入り「出演者の都合でしばらくお待ちください」とのこと。しかし結局は10分間の休憩になり、曲順が入れ替わってブラームスが2曲目に演奏されることになってしまった。プログラムの選曲も脈絡がなかったが、ついには曲順もおさまりが悪いものになってしまったのだが、最後に演奏されたピアソラのバンドネオン協奏曲は面白い曲だった。巧く表現できないのだが、タンゴとクラシックの融合というべきで、初めて聴く人でも違和感なくなじめると思うし、バンドネオンの哀愁を感じさせる音色は、PAを通してもそれなりに楽しめるのではないだろうか。今度はぜひ、ピアソラの曲を室内楽で聴いてみたいと思った。

 ちなみに、曲順が入れ替わった理由は根津昭義氏のホームページに掲載されていたが、ソリストの小松亮太氏の体調不良によるものだったらしい。さらには、ルイージはこの演奏会の前日に来日したとのことで、練習は一日だけだったとのことである。やっぱり通常の定期とは力の入れ方が違うんだなぁ。(02/07/04)



クラウス・ペーター・フロール=読響

 さて、7月となると、暑さも本格化し、オケのシーズンもそろそろ夏休み前の最後の演奏会となる。7月5日は、サントリーホールで行われた読響定期で、指揮者にはドイツのクラウス・ペーター・フロールが迎えられた。名曲シリーズみたいな選曲に加えて、人気ソリストの村冶佳織が登場するためか、チケットはソールドアウトになった。

 まず、最初に演奏されたワーグナー「ジークフリート牧歌」と、休憩後のサン=サーンス交響曲第3番「オルガン付」について書くと、いずれの曲でも指揮者のフロールは、緩やかな抒情的な音楽は、より息の長い指示をする指揮者である。ジークフリート牧歌では、ほぼ全曲にわたってそうだったし、「オルガン付」でも1楽章2部のオルガンがはじめて登場するところから、いっそう遅く音楽を聴かせたのだが、・・・それが効果的だったかかどうかは、疑問符をつけざるを得ない。遅いこと自体は別に悪くないのだが、その遅さに比例して音楽的密度も薄くなってしまうのでは困る。バーンスタイン的に、遅くすることによってロマンティシズムが濃厚になるのであれば効果的なのだが、フロールの場合は、音楽的に弛緩してしまっているような印象を受けた。楽想に応じた音色的な変化も今ひとつで、読響の実力を十分に引き出せないままに演奏会が修了してしまったような印象を受けた。

 そんな中で印象的だったのが、ロドリーゴのアランフェス協奏曲である。実は私がアランフェスをナマで聴いたのは、たしか13年位前に1回だけで、それもサントリーホールのPブロック・・・・ここでは音がよく解らなかった。もちろん村冶佳織を聴くのも初めてである。そんなワケなので、まともにアランフェスに接するのはほとんど初めてで、ギターの技巧的な問題はとんとわからないのだが、やっぱりアランフェスは名曲であることを実感させられた一夜であった。もしかしたらPAで補強されていたのかもしれないが、音色的にも自然で違和感がなく、楽しむことが出来た。さらに感心したことは村冶佳織のステージマナーで、大ホールでも全く物怖じすることない人だね、ホントに。演奏開始前にチラッと指揮者と合わせる視線にも強い意志を感じさせるし、演奏に集中した表情も素敵で、カーテンコール時の身のこなしもキリッとしていて、実にカッコイイ。ファンが多いのもうなずける。(02/07/07)

広上淳一=東京フィル

 つづく7月6日も、同じサントリーホールで行われた東フィル定期で、指揮者はコヴァーチュの腰痛のため、急遽、広上淳一に変更された。これで、東フィルは2ヶ月連続で指揮者が変わってしまったけど、まぁ、理由が理由だから仕方ない。それに代役が広上だったら納得・・・という人も多かったのではないだろうか。

 曲目はリゲティの「アバリシオン」の後に、ソリストのシャロン・ベザリーを迎えてフルート協奏曲のボルンの「カルメン」による華麗な幻想曲と武満徹の「ウォーター・ドリーミング」、休憩後はショスタコーヴィチの交響曲第5番というプログラムである。ただしアバリシオン」や「ウォーター・ドリーミング」のように音色だけで構成されているような音楽には興味がないので、評価はパスさせていただくとして(^_^;)、・・・「カルメン」を演奏したシャロン・ベザリーは、その名前も含めて初めて聞くソリストである。しかし、技巧的には確かなものを持っているソリストのようで、その名のとおり「華麗な幻想曲」を聴かせてくれたのは印象的。

 さて、メインはショスタコは、間違いなく名演奏に属する内容だった。合併以来持続している東京フィルの熱気溢れる演奏で、広上は急の代役にも関わらず、巧みにオケの実力を引き出したといえるんじゃないだろうか。先月のレナルトのマーラーや、この日の前日に聴いたフロールの遅い演奏と違って、広上のアプローチはとてもスピード感に溢れている。さらに楽想に応じた表現の幅も広く、第2楽章のスケルッツォの皮肉っぽい音楽や、第3楽章ラルゴの悲痛な表情も巧みに描き出す。圧巻だったのが第4楽章で、そのスタートから快速だったが、第4楽章のコーダで全くスピードを落とさずにしめくくった。普通の演奏だとラストは速度を落とし、堂々たる勝利のコーダ(♪=88)で終るのだが、野本由紀夫氏のプログラムによると、これは譜面通り(♪=188)の演奏らしい。ショスタコの5番は、すでに何回も実演に接している曲だけど、譜面通りの解釈に沿った演奏は初めてである。曲の「おさまり」としては、確かに♪=88の方がベターに感じたけど、♪=188だと曲の「闘争から勝利」という政治的解釈がまったく別の方向になってしまいかねない面白さだ。まぁ、いずれの解釈によるものだとしても、この日の東フィルの演奏は満足できるものだった。(ちなみにアンコールは、プロコフィエフの”3つのオレンジの恋”から行進曲)

 あと余談を少々。この定期を見て思ったことだが、広上の指揮姿は、非常にオモシロイ。彼のタクトは、拍よりも表情付けのほうに重点を置かれているのだが、後ろから見ていても・・・・うーん、これは一度見た人じゃないとわからないかなぁ(^_^;)。とにかく、面白いんだよね。その表情が音楽に合っているともいえるし、合っていないとも言えるし・・・・。今度はぜひPブロックで彼のタクトを見てみたいと思った。あと、東フィルのプログラムに執筆されている野本由紀夫氏の丁寧で解りやすい解説は、毎月、とても楽しみにしている。冊子としては非常に薄いけど(^_^;)、曲目の解説に限れば、在京オケのプログラム中、いちばん!じゃないだろうか。(02/07/07)



二期会「ニュルンベルグのマイスタージンガー」


 この間、レポートはサボって来たけど(^_^;)、ワシントンオペラの「スライ」を見て完全に脱力し、久しぶりにハレーSQを聴いて、やっぱ室内楽はいいなぁと思い起こし、ボッセ=NJPのベートーヴェン・チクルスの第1回目(Sy.1&3)を聴いて、ボッセとしては最高の出来ではないにしろ、少なくとも現在の日本で聴ける最高のベートヴェン像に感激してきたところ。そして7月のコンサートを締めくくるのが、二期会の「ニュルンベルグのマイスタージンガー」で、日本で上演されるのも結構久しぶりのような気がする。ワタシ的には、前々回の来日時のベルリン・ドイツ・オペラで見ただけで、その時はやたらと長いだけで、ぜんぜん面白くなかった記憶がある。そんなワケで、あまり好きなオペラではないのだが、二期会の久しぶりの上演で、しかもベルギーのモネ劇場との共同制作ということもあって、2回も見に行くことにしたのだ。今日はBキャスト初日だったのだが、日曜日の公演という事もあって会場の東京文化会館はほぼ満員の盛況である。

 まず、歌手だが、これはさすがにベルリン・ドイツ・オペラのときとは比べようもない。ヴァルターの田中誠は、明らかに不調で、いつ声が裏返るか・・・みたいな感じで、ハラハラどきどき。なんとか最後まで歌いきったものの、マイスターへの道のりはまだまだ遠い感じである。ザックスの黒田博は、若々しい役作りで、前半はなかなかの好演だったが、後半はばててしまったのか、声がかすれ気味。他の歌手は総じて不満のない出来栄えで、ポーグナーの長谷川顕、ペックメッサーの荻原潤、エーファの林正子、マグダレーネの堪山貴子などは印象に残った。特に林正子ははじめて聴いた歌手だと思うが、喜怒哀楽の表現が豊かで、歌もなかなか。そして舞台姿もとても美しく、これから必ず人気が出る歌手だと思う。

 管弦楽は、クラウス・ペーター・フロール指揮の東京フィルだったが、序曲はかなり力をセーブしたのか、スカスカな音だったし、全体を通してワーグナーの音楽にしては音の薄さ・・・特に弦楽器の薄さは隠せなかったが、第3幕はかなりの力演を聴かせてくれた。フロールは、緩急やクレッシェンドやデクレッシェンドを強調し、メリハリの強い音楽を作ろうとしていたようだ。

 演出はクルト・ホレスによるもので、モネ劇場のスタッフが演出補佐、照明、衣装、舞台装置を担当していたようだ。その舞台の色彩感は、ドイツ的というよりは、明らかに南仏風というほうが相応しい。特に第2幕と第3幕では白を基調とした明るい舞台は、明らかにドイツの雰囲気とは一線を画す。また第3幕の歌合戦のシーンでは、職人組合やマイスターたちが客席側のドアから入場し、パン屋の組合は客席にパンを配りながら行進して、会場の雰囲気を盛り上げる。マイスターの入場では、会場の手拍子も巻き起こり、その盛り上がりを維持したまま歌合戦に突入する。ステージ横のトランペットとスネアのバンダ、そして大合唱が加わり、さらに音楽の高揚を醸し出す。

 久しぶりにオペラを見て興奮を覚えたのだが、マイスタージンガーが面白くないなんて、なんで今まで思っていたんだろう・・・なんていう感じで、この二期会公演を見聞きして、はじめてこのオペラのよさがわかったような気がした。もちろん歌手の出来栄えでは、ベルリン・ドイツ・オペラの時には、およびもつかない出来かもしれないが、演出を含めた全体のバランス、オケのアンサンブルなどを考慮すれば、決して水準の低い公演ではないと断言したい。むしろ、プロダクションとしては、高水準のものである。来週の日曜日、Aキャストの公演が楽しみになった。(02/07/29)





さらば、ADSL


 昨年の4月18日に開通したADSLだったが、その利用に終止符を打つ日を迎えた。私の家は電話局から2km以上あるのでADSLは1.5Mbpsのコースで、開通した直後は400kbps程度で通信できていたが、しばらくするとISDN並みの遅さ(ホント!)になってしまい、モデムの電源を入れなおすと回復するものの、しばらくするとまた元の木阿弥・・・。オマケに通信は不安で、日によっては通信が何回も途切れてしまう有様だった。原因はよく解らないが、いずれにしてもADSLからの脱却を狙っていたのである。

 そして8月3日から我が家にやってきたのは、NTTの光ファーバーネットワークである「Bフレッツ」である。住んでいるのが集合住宅なのでPNA(電話回線を使ったLAN)を使っている。そのため光ファーバーといっても10Mbpsまでのプランなのだが、実測で8Mbps程度のスピードが出ているのを確認できた。ただしウチのルータが遅いので、ルータを介すと3Mbpsに落ちてしまうのが悲しいのだが、それでもこれまでのスピードとは雲泥の差である。それ以上に、速度が安定しているのが嬉しい。値段も従来のフレッツADSLと大きく違わないので、大満足の選択だった。

二期会「マイスタージンガー」Aキャスト


 8月4日は、二期会主催の「ニュルンベルグのマイスタージンガー」のAキャストを見に行った。先週はBキャストを5階R側で見て、昨日はAキャストを4階L側で見たのだが、両側から見てやっと演出の全貌がわかった感じがする。先週は、第3幕のラスト近くで、失意のペックメッさーが客席の通路を通って退場していくシーンがぜんぜん気づかなかった。この演出だとやはり正面、しかも1階席で見たほうがステージとの一体感がありそうだ。

 さて、最終日のAキャストの出来だが、まず間違いなく歌手の平均点はAキャストのほうが高い。特にヴァルターの福井敬は、さすが!、そのテンションの高い声はマイスターに相応しい。あとザックスの多田羅迪夫も、やわらかく艶のある声で好演。ただし、プロンプターの声がザックスのところでだけ多く聞こえてしまったのは残念な気がするが、日本人歌手からこれだけのザックスを聴くことが出来れば思わぬ収穫といってよいのではないだろうか。少なくとも、この2人だけ考えれば、Bキャストを上回る出来栄えで、他の歌手も概ねBキャストと同等ので水準はキープしている。ただ、エーファの佐々木典子が、彼女の持っている水準から考えると、やや不調だと感じたのは私だけだろうか。

 ワタシ的には、Aキャストのほうが出来は良かったと思っているが、昨日の問題は客筋の悪さである。開演前に指揮者がタクトを振り下ろそうかという瞬間にケータイを鳴らすヤツ(4階L側?)はまだしも、第3幕でストロボを焚いて何枚も写真を撮っていたどうしようもない客は、直ちに強制退席させるべきではなかったのかと思うし、それと同時に、周りの客はそれを止めたのだろうかと疑問になった。問題のストロボ写真魔の席たぶん1階L側だと思うのだが、私の席からは蔭になって見えないところだったので、その時の様子はよく解らない。しかしあまりの非常識さに腹が立って、本来は感動的な最終幕に集中して音楽を聴けなかったのが残念である。(02/08/05)



変わる松本のまち


 さて、今日から一年ぶりの松本の町である。朝9時のあずさ53号の乗って約3時間、お昼前に松本についたのだが、降雨確率50%との天気予報に反して、いい天気だ。快晴とまでいかないまでも、お天道様が顔をのぞかせて、サングラスが必要になるほどである。まずは駅前の中島酒店によったら、お店の人が顔を覚えていてくれて(まぁ、毎年必ず来ているからねー)、とりあえず一本しか残っていなかった限定酒をキープ。そのお店のオススメのお蕎麦屋さん「弁天」駅前店によって、もりそばを注文。麺は良いんだけど、ちょっとつゆが弱いかなー。

 それから松本の町を歩いたんだけど、・・・うーん、すっごく変わったね、町並みがー。ここ数年、毎年、来るたびに違うところを工事していて、再開発が進行していたんだけど、もうすべて終わったみたいで、町並みは一新されている印象だ。城下町らしく蔵のイメージを残しながら、モダンな町並みに生まれ変わった感じで、ホントに垢抜けている。電柱や電線も、ぜんぶ地下埋設されているし、女鳥羽川の護岸工事も全部終わって、お散歩コースにぴったりだ。私は以前のごちゃごちゃした松本の町も、すこ〜し知っているので、ちょっと変わりすぎちゃったんじゃないかなぁ・・・と思ったりするんだけど、どうだろうか。

 そういえば市民会館の工事の様子は見てこなかったなぁ。ここは、サイトウキネンを念頭に置いたオペラハウスとして改築工事が進んでいるんだけど、市の財政問題もからんでかなりの物議をかもし出しているらしい。私も、そりゃそうだよなぁ・・・と思う。はっきり言って、サイトウキネンは、小澤征爾の個人音楽祭という色彩が濃く、小澤抜きでこの人気を語ることはできない。小澤が若くて、この音楽祭をかなり長期間開催できるのであれば、まぁ、オペラハウスを作ろうという意図も、分らなくはない(←それでも個人的には賛成できない)。しかし小澤の現在の年齢も考えると・・・・・うーん、公共性、公益性がホントにあるんだろうか・・と思ってしまう。

 そんな影響もあるのかどうかは分らないけど、なんとなく今年の松本の町は、サイトウキネン歓迎ムードが今ひとつな感じがするのは、気のせいだろうか? SKFは、今日がオープニングの公演なので、街灯にはサイトウキネンのフラッグがなびいているんだけど、例年は商店の店頭に貼ってあるポスターも明らかに少ないし、楽器もショウウィンドウに展示していない店が多いのだ。これは、市民会館改築問題の影響なのか、それともマンネリ化が進行しているのか・・・私の気のせいなのかは分らない。とりあえず、私のSKFは27日のオペラ「ピーター・グライムス」の初日である。それまでは観光に専念する予定だ。(02/08/24)



小澤=SKO「ピーター・グライムス」


 私は24日に松本入りして、25日からは上高地や乗鞍高原をまわって、4月以降、久々にゆっくりできる時間を持てた感じがする。心配だったお天気も、すべて良い方向に外れて、今日(28日)の松本も雨天の予想だったのだが、実際は大ハズレで真っ青に抜けきった青空に白い雲がぽっかり浮かんでいて、気温も30度を超える暑さだ。日陰は涼しいけど、避暑で松本に来た人は、きっと当てが外れているに違いない。

 さて、昨日27日は、サイトウキネン・フェスティバルのオペラ公演初日で、ブリテンの「ピーター・グライムズ」が上演された。キャストなどはリンク先をご覧いただくとして、私はきちんと演出が付いた舞台上演の「ピーター・グライムズ」に接するのは今回が初めてで、以前に大野=東フィルのオペラ・コンチェルタンテを聴いたのことがあるだけだ(あれっ、尾高=読響も聞いたかなぁ・・・)。それだけに今回の舞台上演を楽しみにしていたんだけど、その期待は裏切られることはなかった。

 まず歌手に関しては、さすがというべきだろう。9月からウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任する小澤のネームバリューで集めただけのことはある。どの歌手もまったく穴がないが、ピーターを歌ったアンソニー・ディーン・グリフィーは一途で張りのある声の持ち主で、少年を手荒に扱うときの演技、子どもに対する屈折した愛情表現とも受け取れるような表情も迫真のもの。エレンを歌ったクリスティーン・ゴーキーも、唯一のグライムズの理解者としての、やさしさと懐の深さを感じさせる表現力と演技が光った。また、船長のアラン・オピ、セドリー婦人のジュディス・クリスティんなども、実に印象深い。そして、ソリストはもちろんだが、合唱団の一人ひとりにいたるまで、演出の意図が行き届いている。この演目だけは歌唱力だけで押し切ることは難しく、演出家の実力が試される演目だと思うけど、その意味でも成功したといえるんじゃないだろうか。その演出の意図だけど、正直言ってこの演目の「演出つき」上演に接するのが初めてなもので、これがオーソドックスなものなのかどうかは分らないが、ワタシ的には全く違和感なく舞台を見終わることができた。ただし、一点だけ考えさせられたことがある。

 この演目の解説で「個人vs村の掟」みたいな構図で書かれることが多いと思う。たしかにその通りの演目だろうけど、児童虐待が多くなっている現代の日本の中で、そのような解釈だけでこの演目を理解するのは難しくなっているのも事実だろうと思う。現在の日本では、児童相談所が児童虐待を発見した場合、積極的に家庭内に介入して、必要とあらば子どもを親から引き離すこともいとわない時代だ。このような価値観が一般化しているかどうかは別として、村人たちがグライムズの弟子が事故死?したの疑問のもち、殺人ではないかと非難することは、一概に「悪」として理解することはできないのである。もちろん、虐待の原因が、旧態依然の村社会にあるという解釈もありえるし、そのような解釈の伏線がこのストーリーの中に内包されているのも事実だろうけど、単に「個人対集団」というベクトルだけでは、物足りなさが残ったのは事実である。

 管弦楽だが、ホールの大きさに見合わない大音量を出そうとして、ffで少し音が荒れてしまっているような気がした。ダイナミックレンジの広い音楽作りは小澤の得意とするところで、その意味では「ピーター・グライムズ」は小澤の長所を生かせる演目だろうとは思う。そして、そのダイナミックな音楽、緊張感あふれる演奏がストーリーを盛り上げていたのも事実だが、ホールのキャパを考えて、もう少しピアニッシモ方向の音楽を磨き上げるほうが、聴き手の感動・共感を呼ぶのではないだろうか。

 あと、気になったのが、このホールの音響である。以前に比べてホールの残響が急激に豊かになったように感じたし、歌手の声にもちょっと不自然な指向性を感じた。これは私の気のせいでしょうか? 何はともあれ、20世紀オペラの名作「ピーター・グライムズ」を舞台上演で、しかもこれだけのキャストをもって聴くことが出来る機会は、これからも決して多くはないだろう。わざわざ松本に行ってでも、聴く価値が十分にある、貴重な一夜だった。(02/08/28)