藤原歌劇団「マクベス」

(文中の敬称は省略しています)

2001/02/02-04 

 「マクベス」は私が最も最初に見たイタリア・オペラである。時は1988年7月。そう、あのシャーリー・ヴァーレットが藤原歌劇団主催の公演で歌ったときだ。オペラを見初めて間もない私は、彼女の凄味、存在感に圧倒され、感動した。私がこの演目を好きになった理由も、シャーリー・ヴァーレットという歌手の存在ぬきに語ることは出来ない。この公演は、私のオペラ史にとって欠かすことの出来ない「素晴らしい公演」だったのだが、同時にその後の「マクベス」を聴くときにシャーリー・ヴァーレットが基準になってしまって、ある意味では「不幸な公演」だったのかもしれない。そんな「刷り込み」の著しい私だから、かなり偏りのある感想になる点はお許し頂きたい。

 今回の「マクベス」の注目は、1995年にローマ歌劇場で上演されたヘニング・ブロックハウスの心象的、抽象的な演出だろうと思う。開演前の演出家自身の「解説」では、登場人物の心象を表現するため、メイクや衣装には黒沢明監督の映画などから東洋的な部分も取り入れて創ったとの話であった。今回の藤原歌劇団公演に際し、多くの部分を見直したらしいが、オペラ全体に貫かれるのは「夜」と「死」のイメージ。登場人物全員に施された白塗りの顔は、生命感=現実感のない舞台をより一層強調する。数枚の紗幕だけが吊り下げられた簡素な舞台装置だが、2階正面席に設置されたスライドとプロジェクターで、城壁や炎、亡霊など、さまざまに変化する。舞台上に有るものだけを見れば、シンプルに極みだが、投影装置などには金がかかっていそうだ。

 そのブロックハウス演出の「主役」は、他でもなく「魔女」である。一般的な演出では、魔女は予言者としての役割しか与えられていないのが一般的だが、ブロックハウス演出では魔女はマクベス夫妻の心理描写も含めて舞台上で重要な役割を果たす。冒頭では空を飛び回り、その他のシーンでは床を這いずり回るので大変な運動量だとは思うが、マクベスやマクベス夫人の「邪悪」な心理を操る陰の主役としての役割を与えたのが、この演出の第一の特徴だろう。

 しかし、この演出が成功していたかというと、必ずしもそうとはいえないと思う。魔女や兵士が舞台を転がるときの雑音や、舞台転換の間隔の長さは音楽的なつながりをも断ってしまう感じがして興ざめ。演出のコンセプトは一貫し、さまざまなアイデアが凝らされているのだが、この演出の第一の特徴と書いた「主役の魔女」の合唱のレベルに問題があったのも残念。声の立ち上がりはちょっと鈍いし、力感は不足の原因は、魔女達に与えられた演出上の意図にあったのではないだろうか。また、白塗りの顔も、私には豊かな表情を隠してしまうマイナス面しか感じなかった。

配役 2/2&4 2/3
マクベス アルベルト・
ガザーレ
折江忠道
マクベス夫人 パオレッタ・
マッローク
下原千恵子
マクダフ 市原多朗 中島康晴
バンクォー キム・ヨハン 久保田真澄
マルコム 田代誠 有銘哲也
侍女 河野めぐみ 竹村佳子
管弦楽 レナート・バルンボ指揮
新星日本交響楽団
演出 ヘニング・ブロックハウス
合唱 藤原歌劇団合唱部
 私は3日間の公演をすべて聴いたが、一番良かったのは2月4日のAキャスト。マッロークの歌唱には凄味はやや欠けるものの、美しさと安定感がある。私の基準であるヴァーレットとは対照的な役作りであり、私の好みの系統とは違うのだが、それはそれで一つのマクベス夫人だろう。ただし初日(2/2)のマッロークは、声が細すぎて、マクベス夫人に求められる低域の凄味を全く感じさせず、また、歌にこめられた感情表現は平板的だったのが残念。
 マクベスを歌ったガザーレは、どちらかというと柔らかくきれいな声を持つバリトンで、マクベスの気弱な側面の表現には長けているのだが、権力欲や虚栄心の表現では弱い。マクベスの内面に同居する「強さ」と「弱さ」のコントラストが、十分に表現できていないもどかしさを感じてしまった。
 マクダフを歌った市原多朗は立派のひとこと。声の張り、美しさ、声量、どれをとっても申し分なし。12年前に聴いた「マクベス」も彼がマクダフを歌ったのだが、その時の名唱を思い出させてくれた。

 対してオール日本人のBキャストも、決して悪い出来栄えではなかった。下原千恵子は、声の凄味、低域の豊かさではマッロークを大幅に上回る。マクベス夫人らしい悪女ぶり、感情表現の豊かさでもでも下原の方が役柄にあっていて、初日のAキャストよりは2日目のBキャストの方がはるかに「マクベス」らしい舞台になっていた。声の美しさ、高音域の安定度、テクニックではマッロークの方が上なのだが、私はこの演目ではやはり性格表現の方を重視したい。
 また折江忠道も、同様に声の美しさではガザーレに譲るものの、マクベスの内面に同居する虚栄心と小心者の心のコントラストでは折江のほうが良かった。
 この公演が本格的オペラ・デビューとなる中島康晴は、感心するくらいに美声も持ち主。「ああ父の手は」がホールに響いたとたん、「虐げられた祖国」の沈んだ雰囲気が一変してビックリ。日本の若手でこんなに良いテノールがいたんだ・・・と思うほどである。市原と比べると声が細いかもしれないが、美声という点ではむしろ中島の方が上。マクダフという役柄を歌う限りにおいては、市原と互角に近いくらいの出来栄えだったと思う。
 合唱は、魔女を除けば素晴らしい出来栄えで、ヴェルディの魅力を堪能させてもらった。

 管弦楽は、かつての新星日響と比較するとかなり安定度のある演奏で、概ね満足できる出来栄え。しかし初日は、手探りの演奏みたいな感じで、フレーズを丁寧に歌わせるのはいいんだけど、それが行き過ぎていて、躍動感や音楽の横のつながりが希薄になってしまったのが残念。2日目以降は、それは大幅に解消されていて、注文をつけたいところはあるとしても、このオケをきちんと纏め上げたバルンボの力量に拍手したい。

 最後にトータルな感想。ワタシ的にこの上演が楽しめたかというと、ちょっと考え込んでしまうのだが、・・・正直に応えると、この暗〜い演目を3日間見つづけるのはツライ。演出的な傾向は決して嫌いなベクトルではないのだが、なぁ〜んか、あんまり楽しめない上演だったなぁ。何でだろー。やっぱり、演出が原因だろうなぁ。