新国立劇場
プッチーニ「蝶々夫人」

(文中の敬称は省略しています)

●1999/12/23 新国立劇場の「蝶々夫人」の再演は、昨年の「林康子&松本美和子」というタイトルロールから、「渡辺葉子&佐藤ひさら」に変わった。今回は一応、両方のキャストを買っていたんだけど、渡辺葉子の日は都合により他の人にあげてしまったので、今回は佐藤ひさらの登場する日だけを聴きに行くことになった。この日は休日ということもあってチケットはソールドアウト!、会場は満員となった。

キャスト 配役
蝶々夫人 佐藤 ひさら
ピンカートン マウリツィオ・グラツィアーニ
シャープレス 折江 忠道
スズキ 森山 京子
ゴロー 市川 和彦
ボンゾ 彭 康亮
神 官 村上 敏明
ヤマドリ 山田 祥雄
ケート 山口 彩
管弦楽 ウジェスコフ・シュティ=東フィル
演 出 栗山 昌良

 昨年の「蝶々夫人」は、ひとえにタイトルロールを歌った林康子の酷さが問題だった。とにかく声を張り上げるだけのデリカシーのない歌い方、身のこなしもドタドタとして、可憐な蝶々さんのイメージとは遠くかけ離れたものだった。往時の歌唱がどのような水準だったのかは知らないけど、もはや林康子に蝶々さんを歌わせるのはムリがあるのが明らかである。他の条件がすべて完璧であったとしても、この演目でタイトルロールがダメだったら公演はぶち壊しだ。事実、このときは他の歌手もまぁまぁだったし、菊地彦典=新星日響もかなり良かった記憶がある。しかし「蝶々夫人」の公演としては、到底、満足できるものではなかった。

 今年の蝶々さんは、現在、この役を歌わせたら右に出る歌手がいない佐藤ひさらである。そして、このタイトルロールの違いが、昨年の水準とは「月とスッポン」に例えられるほどの差を生み出した。もちろん、今年のほうのが遥かに水準が高い舞台なのである。佐藤ひさらが描く蝶々さんは、愛情が豊かで繊細、しっかりものの女性である。ピンカートンのためにキリスト教に改宗、彼の帰還を信じ、そして裏切られ自害する。そのストーリーのそれぞれの場面に応じた「喜怒哀楽」が、自然に表現されているのが佐藤ひさらの最大の美点だろう。声はやや細いので歌唱だけに限ったら、他に優れた歌手はいるかもしれないが、舞台上で蝶々さんになりきれるのは佐藤ひさらをおいて他に存在しないと思う。歌唱力はもちろん、身のこなしのしなやかさ、呼吸の自然さ、表現力の豊かさ、比較する以前の問題かもしれないが、そのいずれにおいても昨年の林康子を圧倒的に上回っている。栗山昌義の演出は、昨年と同じ凡庸なものだったが、佐藤ひさらの熱演は舞台に生命を与えた。

 ピンカートンのグラツィアーニは、柔らかな声が美しいテノールだが、もう少し声に張りがあればキメどころで光ったのだが・・・。シャープレスの折江忠道は、説得力のある歌唱。こちらも声に張りが乏しいのが残念だったが、役柄のツボはきちんと押さえて好演。スズキの森山京子も、やや控えめな演技ながら、第2幕では佐藤ひさらとは絶妙のバランスを見せた。シュティは初めて聴いた指揮者だが、第1幕でオケが走り気味で歌手との若干の齟齬をみせたけど、第2幕では間の取り方が巧く、自然流れるような管弦楽でこの舞台を盛り上げた。また聴いてみたい指揮者である。オケの東フィルも、堅実な出来で、つねにこの水準をキープしてくれるので安心して聴けるのが良い。

 今回の上演に見られるように、きちんとした配役さえ得られれば、日本のオペラでも相当に高い水準の舞台を作り上げられるのだが、これまでの新国立劇場ではそれすら実現できていなかった。この「蝶々夫人」のタイトルロールに起用された歌手のうち、問題だったのは林康子だけではなく、私は聴けなかったが松本美和子も同様だったらしいし、今年起用された渡辺葉子も21日の公演では第1幕ではかなり不安定、24日の公演では不調のあまり第2幕でアンダースタディの池畑都美と交代したと伝えられている。いずれも実績はある歌手らしいけど、今が旬ではないことは確かであろう。これまでの新国立劇場の流れを見ていると、歌手、演出家の起用基準は「ネームバリュー」「実績」「伝統」だけにこだわっているようだが、これほど聴衆を見下した態度はない。今回の佐藤ひさらの件でもBキャスト扱いだし、現在、日本で最も素晴らしい歌唱を聴かせているソプラノである緑川まりを、「魔笛」の3人の侍女役にしか起用しないというふざけたキャスティングなどは典型である。その他にも、「建-TAKERU-」の團伊玖磨や西澤敬一、ホールオペラの「実績」を引っさげて登場したグスタフ・クーンによる「カルメン」の大失敗など、枚挙に暇がない。

 このように新国立劇場は「実績」に拘るあまり、「現時点で最も良いものを起用する」という姿勢が欠落しているとしか思えない。オーケストラの起用も、公平性にこだわるあまり3つのオケが交互にピットに入るが、これが公演水準の大きなばらつきに繋がっているのは言うまでもない。新国立劇場は、既存の音楽関係団体(歌劇団やオケ)に利益を配分する機関だと勘違いしているのだろうか。演出も「オーソドックス」ばかりを強調し、登場するのは凡庸な演出だけ。別に「オーソドックス」だろうと「前衛的」でも良いのだが、ストーリーとして説得力があり、緊迫感のある演出が見られれば良いのである。要は、その時点で最も良いものを起用して、観客に提供するのが新国立劇場の最大の役割なのではないだろうか。来春には緑川まりが「サロメ」のタイトルロールに起用されるなど、かすかな改善の兆しもある。その動きを注目していきたい。