新国立劇場
原嘉壽子「罪と罰」

(文中の敬称は省略しています)

●1999/06/18 原嘉壽子は、日本人作曲家の中では一番多くのオペラを書いている作曲家の一人で、私も「すて姫」(旧題:舌を噛み切った女」と「祝歌が流れる夜に」を観たことがある。とくに「祝歌が流れる夜に」は、日本のオペラの中では最も成功した作品の一つだろうと思っていて、原嘉壽子の作風とテーマがピタリとあった作品だ。また原は、「脳死を越えて」など社会派の作品を手がけており、今月下旬には東京文化会館のオープニングイベントとして再演されることになっている。

 今回の初演作品「罪と罰」は、言うまでもなくロシアの文豪ドストエフスキーの小説をテーマにしたモノで、まえだ純が台本化し、原嘉壽子が4年という時間をかけて完成にこぎつけたオペラである。私自身は、この「罪と罰」のあらすじは知っていても、原作本は読んだことがないので、この舞台がドストエフスキーの原作にどの程度忠実なのかは解らない。しかしオペラを楽しむ上で、原作を読んでいるかどうかは、大きな問題にはならないだろうし、また問題になるべきではないだろう。私は、原嘉壽子の作風と、この「罪と罰」のテーマは合いそうな気がしていたので、少なからぬ期待(&若干の不安)を胸に新国立劇場に向かった。

 原嘉壽子の作風について、この日の公演プログラムの中で佐川吉男氏は「日本語のリズムと抑揚を重視しながら(中略)、演劇の台詞を音楽でふくらませたような独自の朗唱風のスタイル」と言っているけど、まさにその通り。古典的なオペラのスタイルである耳馴染みの良いアリアや旋律は、このオペラからほとんど聞き取ることはできない。音楽的旋律の美しさよりも、台詞の抑揚=聴衆の聞き取りやすさを重視したものなのでそれなりに明瞭ではあるが、舞台両サイドには電光の字幕スーパーが設けられている。親切といえば親切だが、原のオペラであれば字幕スーパーは不要で、もっと舞台に集中できるようにしたほうが賢明だったかもしれない。

 開演時間になると会場は真っ暗、非常灯まで消して、ペンキ屋の風刺的・・・というか形而上学的というか、よくワカらないセリフから始まる。登場人物が多く、物語は複雑だが、音楽によるライトモチーフと演劇的で巧みな演出によって登場人物の性格分けはうまく行われていて、初めて見る人でも混乱することはないだろうと思う。3層構造の舞台を巧く使い、照明や小道具を上手に使って、スピーディな舞台展開を見せる。演出的には高く評価できるし、その意味では見所の多いオペラだ。しかし、オペラとして成功しているかというと、私にはあまり高く評価できない。むしろ3時間が実際よりも長く感じられた。

 その理由として音楽の弱さ。演出の意図の明確さに比して、音楽が表現している内容が弱すぎる。音楽から登場人物の意識があまり伝わってこないのは、音楽芸術のオペラとしては一番大きな問題だ。特に第1幕は退屈で、これなら音楽なしの演劇の方がはるかに良いのではないか。さらに台本の問題も大きい。さすがに「罪と罰」という長大なテーマを全2幕、2時間半のオペラに仕上げるのは無理がある。その制約の範囲内では良くできていると言えなくもないが、第2幕の終景、シベリアの刑務所のシーンの結末では何が言いたいのか伝わってこない。ロージャがかつて関わってきた人たちが幻影のように現れて能書きを述べる(歌う)のだが、結局何が言いたいの?っていう感じ。「空(くう)は空(くう)」とか字幕スーパーに出ていたけど、音(おん)から意味が伝わらないような言葉をわざわざ使う意味があるのだろうか。

 スマートでスピーディな展開を見せた演出があったから助けられたけれど、このオペラが歴史の風雪に耐えられるかというと、個人的には否定的な立場に立たざるを得ない。かつての作品である「祝歌が流れるよう夜に」の方が数段上を行く作品だろう。仮にこの「罪と罰」を再演するならば、少なくとも台本の大幅な手直しと曲の描き直しが求められるだろうと思う。終演後の反応は、可もなく不可もない無表情なモノ。歌手やオーケストラはそれなり頑張ったのだが、カーテンコールはお義理程度でで、早々に拍手は鳴りやみ、さっさと家路に帰る人が多かった。私も見終わってどっと疲れた。良い意味での疲れではなく、無意味な時間を過ごした疲労感である。