ハレー・ストリング・カルテット

(文中の敬称は省略しています)

●1999/06/15 カザルスホールの自主公演中止が公表されて、初めてのハレーSQ定期演奏会がカザルスホールで開催された。カザルスホールが誕生したときからずーっとレジデント・カルテットとして活動をしてきたハレーSQは、そのままカザルスホールの歴史の一部を物語っている。また個人的にも、カザルスホールとハレーSQの活動が始まった時期は、私のクラシック音楽を聴き始めた時期と重なるし、そのほとんどの定期演奏会を聴いてきた私にとってはハレーSQのその後の活動がどうなるのか、とても気になる。きっと同じような思いでこのコンサートを聴きに行った人も多かったんじゃないだろうか。開演前に配られたプログラムに小さなチラシが挟んであって、そこにはハレーSQ4人の連名で「カザルスホールの問題について・・・(中略)・・・私達4人の話し合いで出た結論を文章にした物を演奏会終了後にロビー受付にてお渡しする準備があります。(以下略)と書いてある。はたしてその結論とは如何に?

 この日のプログラムは、(私の記憶に間違いがなければ・・・)全部、かつての定期演奏会で演奏したことのある曲のはず。かなりバラエティーに富んだ選曲だ。

 ハイドンの「セレナーデ」は、たぶんハイドンのカルテットの中では最も有名な曲だと思うけど、今ひとつ音色が冴えない。いつもなら、4人の中でも一段高いところで、1stVnの漆原の目の覚めるようなヴァイオリンが聴けるはずなんだけど、この日のハレーはやや渋め。好意的に考えれば、4人の音色が整えられているとも言えるんだけど、ハレーの持ち味は後退している印象。つづくドビュッシーは、ハイドンで感じた不満がかなり改善されて、聴き応えのある内容に。ちょっとくすみがちな音色で統一感があって、内省的な雰囲気は、ドビュッシーのこの曲にぴったりである。第3楽章なんかは4人の音の絡み合いが美しい。離れては寄り添い、寄り添っては離れ・・・、その背後には、官能的な青白い炎が静かに燃えているような雰囲気さえ漂う。細々とした綻びはあったけど、この曲をナマで聴いてこんなに良いと思ったのは初めて。

 休憩後はメインのラズモフスキー第3番。この日の演奏の中で、一番練り込まれていたのは、やっぱりこの曲だった。まず最初っから音が違う。きりっと引き締まった音で、輪郭のはっきりしたベートーヴェン像を刻んでいく。チェロが向山佳絵子に変わってから、低音の主張が明晰になったうえに、全体に華やかさを増していると思うんだけど、このベートーヴェンにおいても向山の加入がプラスに働いているように思う。ただし、いつものハレーとはちょっと雰囲気が違う。聴き手の心理的条件もいつもとは違うので断言は出来ないのだが、この日のハレーは「内省的」な雰囲気なのである。かつては、4人が火花を散らせるような熱い演奏が持ち味だったのに、変われば変わるモノである。個人的には、もう少し熱いベートーヴェンを聴きたかった。

 さて、終演後にロビーで配布された封筒に入っていたモノは、Katchinさんの「カザルスホール2000年問題を考える」に全文が掲載されているので、そこを参照してほしい。要点を書くと

  1. ハレーSQとしての活動は継続する
  2. ただし、来年2月の第37回定期を最後にカザルスホールでの演奏に終止符を打つ
  3. その理由として、これまでホール側からハレーに対して何の説明もエクスキューズもなかった
  4. またカザルスホールの会報5月号の萩元晴彦氏の文章の中にも、ハレーSQについて一文もふれられていない上に、「音楽家に奉仕するホール」という姿勢が欠落してしまっていること

 私なりの解釈なのだが、この結論の根底にあるのは萩元氏に対する不信感のように思える。はっきり言って日本の室内楽演奏の環境は厳しい。どう考えても採算がとれないので、必然的にギャラは安くなる。この日の豊嶋氏の文章でも、同じ4人でも個別に依頼されるのとハレーSQとして「依頼されるのでは、出演料が2倍違う、と書いている。残念なことに日本では、演奏家の情熱なしに室内楽の演奏を継続することは出来ない。もちろんそれはクラシック音楽全体に言えることではあると思うけど、室内楽の場合はその傾向が顕著なのだろうと思う。。この日のハレーSQの演奏会では後半のベートーヴェンを、ちょうど私の後ろの席で萩元晴彦氏が聴いていたのが暗示的である。

 このハレーの文書の最後に 「昨日6月14日石川康彦カザルスホール総支配人より、我々ハレー・ストリング・クァルテットに対し、説明と報告が遅れたことに対する謝罪がありました。石川氏より我々の結論に対する再検討を求められましたが、充分な時間がなく新たな結論に至っておりません。しかし、石川氏の我々に対する誠意は充分に感じることができました。」 という文章がついていた。今後の話し合い次第ではカザルスホールで演奏を継続することもありえる含みも感じられる。私はハレーSQがどこで演奏を続けようとも、その質的水準をキープし続ける限りにおいて、それを応援する気持ちにかわりはない。しかし、願わくば、カザルスホールやアウフタクトが創り出した地平を引き継ぎ、きちんとした評価を得るためにも、個人的な確執という形で結論は出してほしくない。萩元氏とハレーSQとの間で、きちんとした話し合いの時間が必要なのではないだろうか。