英国ロイヤルバレエ「マノン」

(文中の敬称は省略しています)

●1999/04/23-25 「マノン」は、「ロミオとジュリエット」と並んで振付家マクミランの代表的な全幕モノ作品のひとつ。もう3年以上前の記憶だからかなり曖昧だけど、1996年にアメリカン・バレエ・シアターが来日したときにもマクミランの「マノン」をアレッサンドラ・フェリ&フリオ・ボッカのコンビで見たことがある。このとき以来、マクミランは私の最も好きな振付家になった。97年の英国ロイヤルバレエ来日時にはマクミラン版のプロコフィエフ「ロメオとジュリエット」を上演、その2回の舞台を見てロイヤル・バレエの魅力にひかれしまった。いわばマクミランとロイヤル・バレエは、私にとって最も魅力あるバレエの愉しみである。今回のロイヤルバレエ来日公演で最も楽しみだったのは、この「マノン」である。主役を踊るのは2年前の「ロミオとジュリエット」で競演したバッセルとギエムである。

キャスト 4/23 18:30 4/24 18:30 4/25 18:00
マノン シルヴィ・ギエム ダーシー・バッセル シルヴィ・ギエム
デ・グリュー ジョナサン・コープ イーゴリ・ゼレンスキー ジョナサン・コープ
レスコー(マノンの兄) イレク・ムハメドフ
ムッシューG・M クリストファー・サンダース
レスコーの情婦 クリスティーナ・マクダーモット ベリンダ・ハトレー
管弦楽 アンソニー・トワイナー指揮 東京シティ・フィル

 これは3年前にも書いたんだけど、マスネ作曲のバレエ音楽「マノン」というのは、厳密な意味では「存在しない」のである。バレエ上演ににおける音楽の位置付けの低さは今更書くまでもないのだけれど、3年前の私の文章をそのまま引用すると

バレエの上演に接しはじめてから驚いたのだけれど、バレエの現場での音楽の扱いには一種のカルチャーショックを受けた。オペラでもカットは慣用的に行われることはあるけど、演出家が他の曲からから勝手に持ってきて編集するなんてもってのほかで、昨年のボリショイ・オペラの「イーゴリ公」が演出家によって編集されていたのを見ただけである。しかしバレエでは、そんなことは日常茶飯事のように行われている。現代バレエでチャイコやマーラーなどの作曲家の曲が用いられるのは解るけど、今回の「マノン」は英国ロイヤルバレエ芸術監督(当時)だったケネス・マクミランがマスネが作曲したいろんな曲を寄せ集めて「マノン」の物語にあわせたものである(編曲はリートン・ルーカスという人物)。マスネはオペラで「マノン」を作曲しているが、あえてオペラの同曲からは引用しないで他の曲から選んだとのこと。こんなことをオペラでやったら(できないとは思うけど・・・)大ヒンシュクであるが、バレエではこれがマスネ作曲の作品として堂々と通用してしまうのである。せめて「マスネ作曲(マクミラン編)」くらいの表記はできないものあろうか。

 と言うわけである。マスネが書いた50近い曲から適当な作品を集めて、編曲し、ひとつのバレエ作品に仕上げる作業はきっと気の遠くなるほど膨大な作業だったに違いない。バレエ音楽は、楽想の違う細かい曲の集合体のみたいなモノなので、このような「寄せ集め」が可能なのだろうが、実際にこの舞台を見ても、多くの人は「寄せ集め」というような違和感は抱かないと思う。マスネの甘く魅力的な旋律が散りばめられていて、自由奔放で恋多き女・マノンの人生を表現しようとしている。しかし、この物語の主役は「マノン」であって「マスネ」ではない。マクミランの「マノン」は、バレエの技法によって綴られた演劇である。そのタイトルロールを演じるバレリーナによって、さまざまなマノン像が浮かび上がってくる。

 まずシルヴィ・ギエムが演じるマノンは、「官能的」のひとことにつきる。修道院に入るはずのマノンがデ・グリューと出会うまでは、自分の魅力には気がついていない女を演じるのだが、デ・グリューと出会ってパリに駆け落ちするなかで自らの魅力に目覚めて行く。ギエムの見せ場は、官能に目覚めて以降のマノンである。第1幕2場のデ・グリューの部屋の場面は、マノンがデ・グリューとの愛に目覚めていく喜びが表現されるシーンなのだが、ギエムの演じるマノンは実に官能的だ。その表情、体のうねり、仕草の子細に至るまで徹底的に磨き込まれ、マノンという恋に生きる女性を表現する。その真骨頂は第2幕だ。パーティの時、ムッシュG・Mのもとへと走ったギエムが、多くの男の間をリフトで渡り歩く姿は、自らの官能性と男を惹きつけてやまない魅力に気づいた女がその力を駆使すると同時に、その力に溺れる姿だ。このバレエでは、一見、派手なワザは盛り込まれていないけれど、リフトや表現力で要求される水準は極めて高い。ギエムは完璧とも思える技巧を駆使すると同時に、並はずれた表現力も兼ね備えるようになった。「ロメオとジュリエット」のギエムは、いささか表現力で物足りなさを感じたけれど、この「マノン」を演じるギエムには物足りなさはいっさい感じない。

 第3幕は、ニュー・オリンズに流刑となったマノンが沼地で息絶えるシーンである。マノンは自らの魅力故に自らのみの破滅を招く。豪華な衣装や美しい姿は望むべくもないマノンが、最後の力を振り絞ってデ・グリューと踊るシーンの悲劇性は、観る者に強い印象を残す。ジョナサン・コープとの強い信頼に基づいたデュエットは、一瞬の油断が致命的なミスにつながりかねないようなワザの連続である。マノンとデ・グリューの強い緊密さが、よけいに悲劇性を強調する。

 一方、ダーシー・バッセルの演じるマノンも、違った魅力を見せた。バッセルは、明るい雰囲気と美しい容姿の持ち主だが、その魅力を最大限に生かした可憐なマノンを演じる。可愛らしく陰のないマノンは、ギエムの演じるマノンとは対照的で、ギエムのように、なんとなく秘密を持ち合わせていて官能的な雰囲気が希薄。よって男達を惹きつけてやまないマノンの魅力が彼女自身の身を滅ぼしてしまうストーリー全体の説得力も弱まってしまう。97年の「ロメオとジュリエット」の時には、バッセルの方が可憐なジュリエットを演じて、ギエムを大きく上回る好印象を残したが、「マノン」に要求されるのが官能性やオトナの女性の雰囲気だとしたらギエムの方がはるかに上だろう。さらに、動きも堅く、テクニック的にもギエムに見劣りするのだが、ロイヤル・バレエ生え抜きのバッセルの表情と表現力はサスガ。自身の魅力を最大限に発揮するように工夫していて、ほんとうに美しいマノンである。

 オーケストラは、「白鳥の湖」の時と比較すると、はるかに安心して聴ける。決して音楽が主役になりえるバレエではないが、音楽が安定しないと安心して物語に浸ることはできない。「白鳥の湖」の時はテンポがずれまくって金管がコケまくったが、そこは指揮者の差だろう。アンソニー・トワイナーは、シティ・フィルを堅実にまとめあげていたと思う。

 25日のソワレはロイヤル・バレエ日本公演の最終日には「SAYONARA 〜See You Again〜」の看板がステージ上に降りてきて、最後のカーテンコールに応えていた。今度は、どのような演目を携えて来日してくれるのか楽しみである。