新国立劇場「カルメン」

(文中の敬称は省略しています)

●1999/01/24 早々に結論から書くけど、終演後は激しいブーイングの嵐!! ブーイングの矛先は、もちろん指揮と演出を兼任したグスタフ・クーンである。時代は1940から50年代で、場所はアメリカに移したような演出だったけど、前衛的とは名ばかりで、その実態は空虚にして無内容な演出でしかない。午後3時から始まったステージが終わったのは午後7時、歌手もメチャクチャに酷くて聞き苦しく、演出はスカで見苦しく、退屈にして、さらに怒りなくして聴くことが出来ない舞台であった。その意味では、新国立劇場のオープニング公演、團伊玖磨の「建-TAKERU-」以来の「超」駄演、「超」愚演である。

 まず演出から。プログラムには1940〜50年代と書かれているが、場所は特定されていない。したがって推定となるけれど、第3幕のアメリカンスクールのような少年合唱の衣装や、エスカミーリョのプレスリー風の衣装などを総合すると、アメリカっぽい。少なくともスペイン風の雰囲気は希薄であるが、明確な国籍は感じさせない舞台である。舞台装置はかなり簡略化されていて、特に第1幕は舞台がスカスカ。タバコ工場は地下にあるという設定で、ステージ上の穴から階段で上がってくるという設定。新国立劇場の舞台装置は、フルに活用されているし、第2幕以降はかなり金もかかっているように見えるけれど、演出に最も重要な全体をを統一するテーマはらしいものは微塵も感じることが出来なかった。

 クーンは、時代を変えることによって何を訴えたかったのか? 舞台装置を抽象化することのメリットは? バレエ・ダンサーを群集に見たてたワケは? 衣装はなんでアメリカぽくしたのか? ・・・さまざまな疑問が生まれてくるが、全然答えが見つからないのである。高次元の演出の場合は、その場で演出の意図はわからなくとも、「もう一回見てみたい・・・」という欲求が沸いてくるものだけれど、このクーンの演出の場合、そのような欲求は全く沸いてこない。はっきり言って、低レベルなアイデア(?)をつなぎ合わせただけの浅はかな演出なのである。クーンは上演前から新国立劇場の会報に挑発的な演出であると書いていたけれど、「挑発」とかいうレベルには到底達しているとは思えない。聴衆を「挑発」するにはこれまでの演出を超えたそれなりの内容が必要だと思うけれど、クーンの演出は三流以下で従来の演出を超えていると思われる内容は全く感じ取ることが出来ないのである。 

 オマケに歌手も酷い。主役級でマトモに聴けたのはタイトルロールのナディア・ミヒャエルくらいだろうか。フェロモンを感じさせる美しい容姿と、十二分な声量はなかなか。しかしドン・ホセを歌ったバロンビは、音程が悪い上に、声に張りがなく、ヴィブラートなのか声が震えているのか解らない。エスカミーリョを歌ったシルヴェストレッリは「闘牛士」というよりは鈍牛のような重たい声で、完全なミスキャスト。ミカエラの大岩千穂は、良い声を持っていそうだけど、音程が悪く、張り上げるようにヒステリックな歌いまわしが聞き苦しい。特に第1幕のドン・ホセとミカエラの二重唱は最低! 音程はグジャグジャで、PA過剰の騒音状態。マトモな耳の持ち主だったら、もう堪えられない! さらに管弦楽も、ビゼーらしい軽やかな音色感がなく、べったりとした平板的なもの。もはやフランス的な雰囲気は残骸すら感じさせない。したがって表現の幅はダイナミックレンジにのみ頼る傾向となってしまう。クーンは演出家としてはもちろん、指揮者としても三流以下である。

 私はこれまでブーイングはしたことがなかったけれど、今回ばかりはさすがにキレてしまった。拍手もあったけれど、カーテンコールはたったの1回だけ。全くもってヒドイ上演である。「新作初演」などを除けば、これまで見てきたオペラの中で最低最悪である。クーンの指揮者としての才能は一回聴いただけでは判断できないけれど、少なくとも演出家としての才能は凡人以下。才気の欠片すら感じさせないような人物に、なんで新国立劇場は「カルメン」の舞台を任せてしまったのか! 新国立劇場は開場して1年半、そのほとんどは従前の舞台と比較してもの平均点以下の舞台しか上演していないのである。この程度の運営しか出来ないのであれば、新国立劇場がオペラ・ファン見放されるのも決して遠い将来ことではないと思う。