新年特別企画
1998年のベスト・コンサート!
(文中の敬称は省略しています)


●1999/01/04 新しい年を迎えました。金融期間の破綻、会社の倒産件数や失業率の増大という社会状況の中で、もしかしたらこのホームページの読者の中には失業などで未来への展望が開けないという方もいらっしゃるかもしれません。今年もさらに深刻化しそうな不況の中でクラシック音楽界も、厳しい年になる予感がします。ヨーロッパのように芸術に対する行政の補助が少ない上に、アメリカのような企業や篤志家からの援助も望みにくい中での大不況。スポンサーなしでは採算が成り立ちにくいクラシック音楽の世界では、その影響はとても大きいと言わざるを得ません。もしかしたら財政的に苦境に陥るオーケストラも出てくるかもしれません。
 このホームページの出発点は、東京で活躍するオーケストラを中心として、私の目を通した東京のクラシック音楽シーンを紹介することでした。クラシック音楽のリスナーの間では西欧信仰が強く、東京のオーケストラが良い演奏をしても不当に低く評価されているのではないか、という状況認識がこのホームページを作った動機のひとつでした。その認識は現在でも変わっていません。水準が低いオーケストラが淘汰されて行くのは必然かもしれませんが、アンサンブルを誠実に追求し、レベルの高い演奏をしているオーケストラが苦しい運営を強いられていくとすれば、それはクラシック音楽界にとって大きな損失になりかねません。
 ひとりひとりの入場料収入がどれだけオーケストラの運営を支えられるのかは疑問ですが、良い演奏が聴衆の増加につながり、その結果、スポンサーがついてオケの運営の基盤をささえるようになれば、オケの水準をさらに向上させる原動力となるでしょう。そのようなプラスの循環関係をつくりだすためにも、良い演奏が良い演奏として正当に評価されるべきなのです。残念ながら日本には音楽評論とか音楽ジャーナリズムが巧く機能しているとは言えませんが、インターネットやパソコン通信の普及は一人ひとりのリスナーが「良い演奏を正当に評価する」ための機会を創り出しました。誰もが望みさえすれば、クラシック音楽界を良くするため発言をする機会を得るようになったのです。
 このホームページは、決して評論活動を目的としたホームページではありませんが、良い演奏会に出会う機会がこれまで以上に増えるようになるためにさまざまな情報を発信して行けたらと思っています。


 1998年は、景気の低迷と反比例して、感動的な演奏会が例年以上に多い年でした。ベストテンに絞るのが大変で、かなり悩みましたが、結果は以下の通りベスト3を選んで、あと4位以下は甲乙がつけがたいので順位をつけずに演奏日順に12のコンサートを掲載しました。今年も良い演奏会に出会えますように・・・。 


98年ベストコンサートNo.1 サイトウ・キネン・フェスティバル「カルメル会修道女の対話」

●98/09/07 プーランク生誕100年(1999年)を記念して国立パリ・オペラ座との共同制作となったこの上演、 期待通りの、いや、期待以上の素晴らしい上演となった。ラストシーンが終わってからホールを包み込む沈黙は、拍手することすら忘れさせる衝撃を観客に与えたことを端的に物語る。終わったのは午後10時近く、3時間半近い上演なのに、誰も帰ろうとしないで満場のスタンディング・オベーションが歌手やオケに贈られる。決してお義理の拍手ではない。会場にいた誰もが共有する感動ゆえの拍手である。
 フランス革命の過程で殉教に追い込まれていくカルメル会修道女たちを描いたこのオペラは、すべてがレチタティーヴォでつながれていて、耳に馴染みやすいアリアなどは一切無し。決して難解な音楽ではないけれど、緊張感ある音楽が続いて、前半はいささか説明的過ぎるのでは・・・と思ったけど、ラストのシーンを見ると、そのすべてが必然性で溢れ、一切の無駄がないようにすら思えてくる。簡素でモノトーンに近い舞台装置だが、その分、舞台展開もスピーディでテンポもよく、聴き手の緊張感をそがない。さらに照明を巧く駆使して、立体感と奥行きのある舞台を作り出す。そしてなによりも素晴らしいのが登場人物の動きで、あらゆるシーンが説得力に溢れている。演出家フランチェスカ・ベンサロの意思は、登場人物のすべてに徹底されていて、院長の威厳、上級修道女の包み込むような説得力、ブランシュが死に対する気持ちの揺らぎ・・・などなど、登場人物のカラーが自然、かつ鮮明に打ち出され、舞台に生命感を吹き込んでいる。
 はじめて聴く音楽だけに、歌手や管弦楽の評価はしにくいのだけど、どのパートでも不満は感じさせず、高い次元でバランスが取れていた舞台だったことは評価して良いのではないだろうか。歌手に関しては傑出した存在は感じなかったけれど、どの歌手もその役割に徹して過剰な演技や表情が抑えられ、それが舞台のリアリティを高めていた。これだけのメンバーでこの演目に接する機会は、もう当分訪れないだろう。小澤征爾指揮SKOも堅実なサポートで、この音楽に必要な緊張感溢れる鋭角的な音楽は、高く評価して良い。
 今回の「カルメル会修道女の対話」は、20世紀オペラの傑作に加えるべき水準の作品であることを証明した上演となった。今回のプロダクションは、その一点においてだけでも高く評価されてしかるべきだろう。 98年で上演されたオペラの中で、文句なしに最高の舞台である。

98年ベストコンサートNo.2 サイモン・ラトル=バーミンガム市交響楽団

●98/05/26 私が最も注目する指揮者のひとり、サイモン・ラトルと手兵バーミンガム市交響楽団(CBSO)が「音楽監督」としては最後の来日公演。1曲目のイダ・ヘンデルの独奏によるブラームスのヴァイオリン協奏曲は全くの期待はずれの演奏だったけど、ベートーヴェンのエロイカの素晴らしさに関しては表現する言葉を失ってしまう。
  このオーケストラの音色は、貴金属や宝石のようなキラキラした美しさではないし、絹のような光沢とも違うような気がする。最も近い喩えが、最上質の木綿のような滑らかさ・・・だろうか。そしてCBSOの美点は、精緻な、この上なく精緻なアンサンブルである。ラトルのタクトのもとに、いとも自然に「縦の線」と「横の線」がピタリと合わされるのを見るのは、精密なマスゲームのような快感を覚える。12型の弦楽器をコンパクトに配置したオーケストラから紡ぎ出されるアンサンブルは、スピーディに、強靱かつ筋肉質なエロイカ像を映し出す。濃密な表情をつけていたけど、それが不自然にならないのがラトルの美点だろう。朝比奈のような老練なエロイカ像とは対照的で、ラトルのエロイカは青年のような若い英雄像なのだ。まだ40代半ばの指揮者から、このような素晴らしい音楽が聴けるとは・・・! こんな素晴らしいエロイカは聴いたことがない。ラトルは、オーケストラという筆を使って自身の自画像を描いて見せた、と言っても、決して過言ではないだろう。  

98年ベストコンサートNo.3 カルミナ・カルテット

●98/10/12-13 カルミナは、スイスのチューリッヒに本拠を置く若い世代のクァルテットである。私たちがスイスに抱くイメージのひとつにアルプスの山脈があるのではないだろうか。カルミナの奏でる音楽は、たぶん、多くの人がアルプスに抱くイメージに近いのではないだろうか。清涼で高潔、精緻にして繊細、その反面、厳冬のアルプスを吹き抜ける風のような鋭利さを秘めている。カルミナのアプローチは、どの作曲家の曲を演奏するときでも基本的には同じように聴こえる。シューベルトだから歌曲的に歌わせよう・・・とか、ベートーヴェンだから渋く、ブラームスだから重厚に・・・などという作為はほとんど感じない。彼らは、透徹した譜読みと、徹底的に研ぎ澄まされた技巧から、音楽を再構築していく。これによって作曲家の個性が埋没してしまうわけではなく、より作曲家の表現したいことが明確に浮かび上がってくるのが不思議である。そして、これまでの弦楽四重奏団の演奏とカルミナのそれと比較すると、きっとカルミナの演奏は一枚も二枚もヴェールを取り払ったような明晰さを感じるに違いない。
 時として「機能性」と「音楽性」という言葉は対立するかのように使われるが、カルミナに限ってはそのようなことは断じて、ない。絶対的なテクニックに裏付けられた音楽性こそが、カルミナの最高の武器である。今回の演奏会では、鋭利な刃物で切り取ったようなベートーヴェンの4番、透徹した音によって堅牢な構造を見せたブラームスの2番、そして妖刀のようなテクニックで鳥肌がたつような音楽を聴かせてくれたベルグの四重奏曲は忘れがたい。


以下4位〜15位は甲乙つけがたいため、演奏日順に掲載しました

高関健=群響の「トスカ」

●1998/01/18 日本のオケは東京の一極集中だと言われているけれど、東京以外でも活動しているプロのオケもたくさんある。定期的に東京で公演を行っているオケもあるけれど、それ以外はなかなか耳にする機会がない。トリフォニーホールで始まった地方都市オーケストラ・フェスティバルの第1回目の公演は高関健=群馬交響楽団による演奏会形式のプッチーニ「トスカ」である。高関のオペラを聴くのは、このトスカが初めてだと思うけど、歌手の呼吸を大事にした管弦楽、そしてライトモチーフの描き分けの巧みさ、ドラマとしての起伏も申し分ない。各パートの音色の魅力では若干の見劣りはするとしても、東京のトップクラスのオケと比較しても勝るとも劣らないアンサンブルで、プッチーニの劇的なドラマを描き出して見せた。
  歌手では、福井敬と豊田喜代美の主役ふたりが良かった。「トスカ」は、上演機会の多い演目だけに、平凡な演奏で感動させることは難しい。しかしこの日の群響は、素晴らしい熱演で、音楽的に高いレベルの「トスカ」の上演を実現してくれた。歌手も素晴らしかったけど、なによりも高関に率いられたオーケストラの素晴らしさに拍手を贈りたい。群響の定期演奏会が、常にこのレベルでキープされているとしたら、実に素晴らしいことだ。

サントリーホール  オペラ・フェスタ

●1998/04/23 今年前半では最も感動的なコンサートだった。素晴らしかったのは、アンコールで演奏されたプッチーニ「トスカ」のラストのシーンである。マリア・グレギーナがトスカ、アルミリアートがカヴァラドッシを歌ったんだけど、これまで見た舞台上演よりもドラマチックで感動的な幕切れは筆舌に尽くしがたい。グレギーナの最初の一声から聴くものを引き込んでいく求心力を感じさせる。役柄になりきった演技力、ドラマチックな声と豊かな声量は、演奏会形式でありながら舞台が間近み見えるような錯覚さえ覚えてしまう。アルミリアートの柔らかく艶やかな声も、聴き手を魅了するには充分である。「トスカ」は数多くの実演に接してきたし、録音もそれなりに多くを聴いてきたけど、この日の「トスカ」ほど舞台に引き込まれた演奏は初めてである。またレナート・ブルゾン、フルラネットも、持ち味を出し切って満場の拍手を集めた。
 管弦楽はダニエル・オーレン指揮の東京フィルハーモニー交響楽団。オーレンは1月の新国立劇場「アイーダ」を降板させられた指揮者だけど、ナヴァッロとは雲泥の力量を感じさせる指揮者だ。もし「アイーダ」にオーレンが登場していたら、私の「アイーダ」への評価は全く違ったものになったかもしれない。佐渡裕以上にジェスチャーが大きい指揮者で、「カルメン」第1幕の前奏曲なんかは、「踊る指揮者」状態だったけど、佐渡裕との違いは決して空回りをしない点である。とにかく集中力の強さ、求心力の強さを感じさせるタクトで、マスカーニ「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲なんかは決して付け足しの演奏ではなかった。

鄭京和 ヴァイオリン・リサイタル

●1998/04/26-28 鄭京和は、私が最も好きなヴァイオリニストである。久しぶりの来日公演だったけど彼女のすばらしい演奏を聴くことができた2日間のリサイタルだった。鄭の音色からはキラキラ輝くような輝きはあまり感じないし、透明感も高いとは言えない。しかしそれが鄭の最大の魅力でもある。鄭の音色には血の通った体温を感じる。きっと彼女のヴァイオリンの音の断面を切って見ることが出来れば、真っ赤な血が流れているに違いない。情熱的な演奏、スパッと切れるようなフレージング、その生命力の確かさ、人間の感情の営みこそ、彼女のヴァイオリンの魅力だろうと思う。
 初日、「幻想曲」は秘めたる情熱が多彩な音色に乗り移って美しさを湛える名演奏。バッハの「G線上のアリア」は枯れた音色で掘り下げた内容の演奏を聴かせてくれた。
 2日目は、1日目以上に素晴らしい演奏で、刮目すべきは伴奏ピアニストのイタマル・ゴランである。コンビを組んでからまだ1年ちょっとしか経っていないのに、ふたりの呼吸はピタリ。ピアノの比重が大きいストラヴィンスキー「二重奏曲」やバルトークのソナタでは、鄭京和のパッションをゴランのピアノが絶妙なタイミングで受け止める名演奏に会場は沸きに沸いた。バッハのパルティータ第2番は、シャコンヌの内面に込められた情熱と集中力は聴くものを捕らえて離さない。全身全霊を傾けてヴァイオリンにうちこんでいる姿は、音楽に仕える巫女のようである。プログラム最後のラヴェル「ツィガーヌ」は、これまたゴランとの掛け合いが見物だった。圧倒的な集中力にリラックスした雰囲気も加わり、絶妙のコンビで変奏曲を重ねていく。そしてアンコールは両日とも40分以上に及んだ。鄭京和のコンサートは、まさに音楽を聴く喜びそのもの。近いうちの再来日を期待したい。

マリア・グレギーナ ソプラノ・リサイタル

●1998/04/26 人を最も感動させる楽器は「人の声」であると言われている。サントリーホールで行われたマリア・グレギーナのソプラノ・リサイタルは、そのことを改めて確認させてくれたコンサートとなった。プログラムは、第1部がイタリア古典の歌曲を中心に、第2部はグレギーナの母国語であるロシアの歌曲である。彼女の高音部(特に弱音のコントロール)でやや苦しい点があるものの、暖かく血の通った声は人間の営みを感じさせる。プッチーニやヴェルディなどの人間味が強烈に押し出されたドラマでは、感情を揺さぶるグレギーナの声は強烈な武器になる。
 この日の歌曲の中では前半のカッチーニ「アヴェ・マリア」が秀逸。歌詞も「アヴェ・マリア」の単純な繰り返しだけど、その中に織り込まれた祈りの多彩さ、深さ、奥行きは実に素晴らしい。「アヴェ・マリア」という言葉に織り込まれた意味が、一つひとつ違うのだ。彼女に与えられた声の素晴らしさに加えて、感情表現の巧みさは、他の歌手の追随を許さないんじゃないだろうか。後半では、カッコウの鳴き声をもしたチャイコフスキーの「かっこう」も印象的だったけど、素晴らしかったのはシチェドリンのオペラである。ソビエト時代のコルホーズを舞台にした現代的なオペラだけど、彼女の声が作り上げるドラマは舞台上演のそれを上回るかもしれない。熱烈な拍手に応えて、約40分ものアンコールを聴かせてくれた。

シュワルツ=NJPの「ペレアスとメリザンド」

●1998/05/10 看板指揮者・小澤のキャンセルということもあったけど、皮肉にもそれが吉となった公演。全5幕の舞台は、第3幕の後に1回の休憩を挟んだだけで、連続性を重視した舞台構成。そして美しい舞台装置に心奪われた。紗幕の向こうに展開される舞台は、背景の幕に絵を描いただけの簡素なものだけど、巧みな照明も相まって、絵画的な世界を映し出す。装置や衣装はサンフランシスコ・オペラからの借用だと言うことだが、繊細で淡く、上品な質感に溢れる色彩感は、日常とは全く違う世界に誘われる。簡素なだけに舞台展開はとてもスピーディで、聴き手の集中力を途切れさせないのも良い。デイビット・ニースの演出も非常にオーソドックスなもので、登場した歌手がみんなあ芸達者なこともあって、演出と装置の面では全く不満は感じなかった。
 これほどまで歌手の粒がそろっていた公演というのも、最近では記憶にない。ストラータスの声と演技はメリザンドそのものを感じさせる。神秘的な美しさと魅力を湛える彼女の存在がなかったら、このオペラの評価も違ったものになったろう。ホセ・ファン・ダムも声量も表現力も申し分なく、ゴローという難役を演じきった。ロバート・ロイドの演じる老国王の心理表現巧みな歌唱は、ベテランならではの味だろう。
 問題のオーケストラも、シュワルツが手堅くまとめきった。流れとしてはとても自然で、歌手の歌を遮るようなところは感じなかったし、音色感も豊か。あえて難点を挙げると、もう少し筆致の細い、デリケートな表現を望みたいし、神秘的な雰囲気という点では、ちょっと物足りなさを感じてしまった。そして、「タクトがジャン・フルネだったら、どれほど良かっただろう・・・」という想像が頭をよぎってしまうのだ。もしフルネだったら、近来希にみる名舞台になっていたことは疑いない。小澤が看板のNJPオペラ・シリーズの最終回において、彼のキャンセルというアクシデントが発生したけど、それがこのシリーズ最高の舞台を作り上げてしまったのだから運命とは皮肉なものだ。

デブリースト=都響のショスタコーヴィチ

●1998/05/13 この日の指揮者はジェームス・デプリースト。小児麻痺のために足が不自由だけど、大柄な後ろ姿からは強烈なオーラを感じる指揮者だ。スケールの大きいタクトさばきは、オーケストラから最大限の集中力を引き出す。このような資質は、努力によって生み出されるというよりは天賦の才なのかもしれない。デプリーストは細部にはこだわらなずに、音楽の大きな流れを大事にするタイプなのかもしれないけど、そのタクトから生み出される繊細なppからスケールの大きいfffまでスケールの大きい音楽を創り出す。
 ショスタコの交響曲第11番「1905年」は、その名の通り1905年のロシアでの血の日曜日事件に始まる革命を描いた標題音楽だ。ショスタコーヴィチの作曲家生命が微妙な時期に書かれたこの作品は社会主義リアリズム的な標題音楽で、さまざまな革命歌や労働歌が織り込まれ、血の日曜日事件の軍隊による一斉射撃と倒れる群衆の姿が音楽の中に描写されている。純音楽としてみるとあまり面白い作品だとは思えないし、ショスタコの交響曲の中では平凡以下の作品だろうと思うけど、この日の都響は凄かった。静寂と紙一重のppでも音の密度を失わないし、ホールを溢れんばかりの大音響でも決して音が汚くならない。いつも不満に感じる管楽器も大健闘で、これがいつもの都響と同じオケなのだろうかと、耳を疑ってしまった。

ベルリン・コミーシェ・オーパー  オッフェンバック「ホフマン物語」

●98/06/28 オッフェンバックの「ホフマン物語」を見るのは全く初めてなので、頭の中には全く刷り込みがなかったのが幸いしたのかもしれないけど、鬼才クップファーの素晴らしい演出を堪能できた。スター歌手が存在しなくとも、聴く者の心を捕らえる舞台を作り上げることが可能であることを見事に証明したといえるだろう。
  クップファーの演出の最大の特徴は、ふつうはメゾ・ソプラノが演じるミューズ/ニクラウスをバリトンが演じることによってメフィストフェレス的な要素を強調しているという点と、第3幕と第4幕を入れ替えて、悲劇的な死に至るアントニアのエピソードを第4幕に持っていたことだろう。さらに時代も現代に移し、ジュークボックスから奏でられる「ホフマンの舟歌」や、自動車に乗って走り去るジュリエッタ、より問題意識を刺激する演出を試みている。
 さらにオーケストラが巧い。音量的にはベルリン・ドイツ・オペラに及ばないのは当たり前だけど、アンサンブルでは圧倒的にコミーシェ・オーパーの方が上だ。リューの指揮は、かなりセーブした感じで、色彩的にはモノトーンの中にさまざまなさまざまなコントラストを盛り込んでいく。写真的に言うとラチチュードの広い「上質の白黒写真」という感じなのだ。オケに関してはあまり期待していなかっただけに、これは大収穫だ。
 歌手に関しても大きな期待はしていなかったのが幸いしたのか、意外と大きな不満は感じなかった。もっともスター歌手不在、演劇と音楽の融合を目指したムジーク・テアター路線の歌劇場だけに、みんな演技達者で、クップファーの意志が徹底しているように見受けられた。この劇場のオペラを見たのは初めてだったけど、ドイツ語上演という問題点を感じさせずに、演劇的要素を強調したオペラに引き込まれてしまった。クップファーという名演出家と、この劇場は、まずます目が離せない存在になりそうだ。

大植英次=ミネソタ管弦楽団

●98/09/25 大植英次というとなによりも、バーンスタインがLSOを率いて最後の来日公演を行った1990年の事を思い出す。当時、まったく無名の指揮者だった大植英次がバーンスタインの代役としてLSOを振るのははっきり言って無理があった。大植にとっては不幸な日本デビューとなった訳だが、それから8年、大植はミネソタ管弦楽団の音楽監督として日本に帰ってきた。
 1曲目のモーツァルト。大植はタクトを持たずに、かなり個性的な指揮をする。うまく文章表現は出来ないけど、Pブロックから見ていると、表情のつけ方がとても面白い。アメリカのオケにありがちなパワーでおしまくるようなオケではなく、きちんとしたアンサンブルを基本に音楽を組み立てていくオーケストラである。
 メインの マーラーの5番は、死の淵にいるようなグロテスクな表情は後景化して、浄化された明るい世界が表出したような感じ。アンサンブルは緻密だし、どのパートも突出することなく一つの音楽を造り上げていくさまは、なかなか感動的。どこかの指揮者みたいにバーンスタインの物真似ではなく、大植英次は自分自信の言葉でマーラーを語っているのが素晴らしい。
 アンコールは3曲。とくに鳴り止まぬ拍手に答えて演奏したエルガーなどは、感動的かつ心憎い演出である。オケが引き上げても、大植はコンミスとともにステージに呼び戻される。終演は9時35分、時間の長さを感じさせないコンサートだった。

マリナー=都響の英国プログラム

●98/10/06 マリナーはバランス感覚が優れた指揮者だ。音楽の要素のバランス配分に長けていて、どんな音楽でも過不足なく聴かせてくれる。レパートリーは広いし、特徴らしい特徴はないんだけど、その音楽性の高さは一度ナマで聴いた人間なら実感できるんじゃないだろうか。今日のプログラムの両端を挟んだブリテンとエルガーは、アンサンブルのキメに欠いた嫌いはあったけど、奇をてらわない正攻法の演奏で、共感がもてるアプローチだ。とくに優れているのが音楽の流れが自然なこと。デュナーミクの幅も広くとられた「エニグマ変奏曲」が終わると、指揮者は盛大な拍手とブラボーの声に包まれた。
 しかし、この日の白眉は間違いなくシュトゥッツマン。彼女は声量で押し捲るタイプでもない。サントリーホールのような大ホールでは彼女の真価は発揮されていないだろうと思う。しかし、それでも彼女の素晴らしさは十二分に伝わってくる。誇張の無い、控えめな表現の中に秘められた感情のアヤ。その微妙なアヤがここまで伝わってくる歌手がいったい何人いるだろうか。ヘンデルのアリアの「喜」や「哀」の表現の豊かさ、深さは音楽に集中しえるもののみに許された世界だろう。派手さや華やかさはないけれど、心に染み入る名歌唱である。そして特筆すべきはマリナー=都響のサポート。8型の小編成のオケから醸し出される純度の高い響きは、引き絞った弓矢のような緊張感の高さのなかに、適度なゆとりが共存したもの。シュトゥッツマンに負けないくらい素晴らしいものだった。アンコールはヘンデルの「オンブラ・マイ・フ」。コントラルトによる同曲は初めて聴いたけど、天上から届くような深い響きに、ただひたすら感動。この一曲を聞くだけでも、このコンサートに来た甲斐があった。

ゲルギエフ=キーロフ歌劇場管弦楽団の「ロメオとジュリエット」

●98/12/07 ワレリー・ゲルギエフが手兵キーロフ歌劇場管弦楽団を率いて来日し、全部で4プログラムの公演を行った。そのうち2公演を聴くことが出来たが、ベルリオーズとプロコフィエフの作曲した「ロメオとジュリエット」の抜粋上演を行った12月7日の公演は忘れがたい演奏となった。
 キーロフ歌劇場管弦楽団は、やっぱりウィーンやスカラ座などと比較すると機能的に聴き劣りする。キラキラ感は乏しいし、音色もややくすんでいる。速いパッセージの分離感もイマイチだし、ところどころでコケルこともある。しかし、そーゆー基準でキーロフを聴きにくる人は少ないと思うし、キーロフにはそれを補ってあまりある魅力がある。キーロフ歌劇場管は、モスクワのオケよりもはるかにロシア的雰囲気を携えているし、その重心の低い管弦楽、迫力満点の金管楽器の魅力は効しがたいものがある。そしてなによりも指揮者ゲルギエフの魅力だ。指揮者の背中から発するオーラは強烈で、求心力や推進力のたくましさは抜群である。ゲルギエフの魔法のタクトにかかると「ロメオとジュリエット」などの標題音楽から物語が透けて見えるから不思議である。特にプロコフィエフのバレエ音楽のほうは素晴らしかった。下手なバレエ付き上演よりははるかにドラマチックで表現力が豊かなのだ。没落するモスクワに代わって、いまやロシア最高のオーケストラに成長したキーロフ歌劇場管弦楽団の今後には眼を離せない。

ジャン・フルネ=東京都交響楽団

●98/12/16&21 ジャン・フルネが東京で「ペレアスとメリザンド」を振る、・・・このことを知って胸がときめかないフランス音楽ファン、オペラ・ファンがいるだろうか。フルネのタクトから溢れるは、あくまでも端正で透明感を失わない。細い筆致で描かれる「ペレアスとメリザンド」の世界は、余計な味付けをせず、ロマンチックな表現もしていない。淡く薄暗い朝もやのような色彩感、淡々と流れる時間の中で繰り広げられるペレアス、メリザンド、ゴローの悲劇は、フルネのタクトによって見事に描かれた。
  もちろん2時間半の長丁場だけに、ノーミスであったとは言えないけど、フルネが描こうとした世界は見事に再現されたと言って良い。特に第4幕第4場、ペレアスとメリザンドの愛の場面の美しさは筆舌に尽くしがたい。あのような淡々として流れていく音楽の中から、自然と溢れ出してくる愛の場面の濃密さ、演奏会形式ということも忘れて思い描く舞台の中に心奪われる瞬間だった。
 さらに12月21日は、都響の「作曲家の肖像」シリーズで、ショーソン・プログラムである。この日の都響の色彩感の美しさは「ペレアスとメリザンド以上! 目を見張るものがあった。「祭りの夕べ」の中で描かれる喧騒と静寂の色彩感、コントラストは実に見事だった。特に弦楽器の美しさは掛け値なしに素晴らしい。「愛と海と死」は、ワーグナー的な旋律にフランスの香水を垂らしたような音楽。オーケストラの響きは耽美的。休憩後の交響曲変ロ長調は、曲そのものに対する魅力はあまり感じないけれど、ヴァイオリン奏者が弓全体を使ってボーイングをしている姿は真剣そのもの。端正さに熱気も加わって、感動的な演奏に仕上がった。
 フルネのタクトから紡ぎ出される音楽は、端正で気をてらったことは一切しない。音楽の流れを妨げるものは一切ないのだ。あえて誤解を恐れずにいうと、フルネの音楽を聴いていいると指揮者と言う存在を忘れてしまうくらいだ。もしかしたら指揮者の理想的な姿と言うのは、聴き手に指揮者の存在を意識させないことなのかもしれない。ジャン・フルネは、その意味では世界最高のマエストロだろうと思う。これだけの名指揮者を、日本に居ながらにして聴けるというのは音楽ファンにとって代え難い喜びであろう。

キャスリーン・バトル ソプラノリサイタル

●98/12/22 久しぶりに聞いたキャスリーン・バトルのリサイタル。あまり好ましくないところから書くと、バトル流の歌いまわしが強すぎて、チト癖が強すぎはぬぐいきれない。こんな調子でオペラを歌われたら、アンサンブルがぐちゃぐちゃになるのは目に見えている。ドイツ語、フランス語、イタリア語、英語とさまざまな言語の歌でも、イントネーションの差がほとんど感じられない。それでもバトルの魅力は、その欠点を上回る。わずかに陰りは見えているけど、適度に脂がのっていて肉感があるソプラノはとても有機的で、声の力だけをもってして人の心を動かす力を持っている。ピアニッシモからフォルテまでのきっちりとコントロールされてえいるし、アカペラでも音程とリズム感の確かだ。ゆえに安心して音楽に浸ることが出来る。
 前半はややセーブ気味だったけど、後半はさすがに盛り上げる術を知っている。後半のドニゼッティではパワー全開! フォーレではしっとりと聴かせた後で、黒人霊歌ではジャズ調の雰囲気の中に深い祈りを刻み込む。「アレルヤ」ではコロラトゥーラの技法でやや難が合ったようだけど、本番はここから。アンコールは45分で全7曲を繰り広げた。エンターティナーとしての実力は高いし、声の魅力も充分である。彼女の声をオペラで聴くのは難しいかもしれないが、良くも悪くも自分のためのステージでないと魅力は発揮されにくいので、彼女はやっぱりリサイタル向きの歌手だろう。クリスマスの一夜を演出として、バトルのリサイタルは十二分に価値があるものだった。