フルネ=都響のショーソン

(文中の敬称は省略しています)

●98/12/21 都響の「作曲家の肖像」シリーズ、今年最後を飾るのはによるショーソン・プログラムである。ショーソンは私自身もほとんど聴いたことのないし、ほとんどの人にとっては馴染みのない作曲家だろうと思う。そのせいか、芸術劇場の3階席はガラガラ! 半分も埋まっていないし、1,000円のEx席連続券で買った人たちも、来ていない人も多い。しかし、この演奏会を聞き逃した人たちは多いに後悔するべきだろう。都響の今年のコンサートの中では、最高と評価して間違いない演奏会になったのだから。

 この日の演奏曲目に全く通じていない人が言っても信憑性に欠けるかもしれないけれど、この日の都響の色彩感の美しさには目を見張るものがあった。「祭りの夕べ」の中で描かれる喧騒と静寂の色彩感、コントラストは実に見事だった。特に弦楽器の美しさは掛け値なしに素晴らしい。たぶんフランスのオケでも二流クラスだったらこの日の都響のほうが上に違いない。「愛と海と死」は、「トリスタン」や「神々のたそがれ」みたいなワーグナー的な旋律にフランスの香水を垂らしたような音楽。浜田理恵の歌唱は、イントネーションは美しいが声そのものは今一つ。しかしオーケストラの響きは耽美的。休憩後は交響曲変ロ長調。曲そのものに対する魅力はあまり感じないけれど、ヴァイオリン奏者が弓全体を使ってボーイングをしている姿は真剣そのもの。端正さに熱気も加わって、感動的な演奏に仕上がった。

 フルネのタクトから紡ぎ出される音楽は、端正で気をてらったことは一切しない。音楽の流れを妨げるものは一切ないのだ。私の好きな指揮者には鄭明勲やサイモン・ラトル、ゲルギエフらが挙げられるが、彼らの指揮は濃厚な味付けが特徴で、時には音楽の流れを損なうように感じることもある。しかしフルネの淡白な味わいは、彼らとは全くアプローチが違う。あえて誤解を恐れずにいうと、フルネの音楽を聴いていいると指揮者と言う存在を忘れてしまうくらいだ。もしかしたら指揮者の理想的な姿と言うのは、聴き手に指揮者の存在を意識させないことなのかもしれない。ジャン・フルネは、その意味では世界最高のマエストロだろうと思う。今回の来日では第九をもって演奏を終わるけど、来年4月には都響でフォーレの「レクイエム」やブラームスの2番、ラヴェル・プログラムなどを演奏する。さらに5月には日本フィルに客演し、定期でフランクの交響曲や、横浜定期でもフランス音楽プロを振る予定だ。これだけの名指揮者を、日本に居ながらにして聴けるというのは音楽ファンにとって代え難い喜びであろう。