マゼール=イスラエル・フィル

(文中の敬称は省略しています)

●98/10/20 先住民であるパレスチナ人を排除して成立したイスラエルという国の存在を支持するか、もしくは認めるかという問題となると、私は断じて否定的な立場なんだけど、その立場を音楽の世界にまで持ち込むべきか・・・となるとちょっと歯切れが悪くなる。イスラエル・フィルを聴くのは2回目なんだけど、前回もそんなことを考えながら聴いたっけ。

 マゼールというと、私にとってはとても思い出深い指揮者で、自分でチケットを買って行った最初のコンサートがマゼール=読響のマーラー交響曲第2番「復活」だった。(たしか87年?) もしこのときの演奏が駄演だったら、私はコンサート通いに身をやつしていることもなかっただろうし、このホームページも存在しなかったに違いない。そのときにはもちろん気がつかなかったけど、マゼールという指揮者は「録音」と「ライヴ」がメチャ違う指揮者ということでは有名で、録音ではかなりフツーなんだけど、ライヴになるとメチャ変わったことをやるのである。フランス国立管弦楽団と来日したときの「ボレロ」なんかは、ラストに近い転調のところでパウゼを入れて一瞬心臓が止まるほどドキッとしたことを思い出す。私のナマ・マゼール体験はこのイスラエル・フィルで3回目だけど、今度のマーラーもやっぱり「変」だった。マーラーの交響曲を一夜に2曲という超重量級プログラム。これは以前、ベルティーニ=ケルン放送響がマーラー・チクルスを行ったときにも、同一曲順・同一プログラムだった。

 イスラエル・フィルは、オーケストラ全体にわたって均質性をもっているのが最大の特徴ではないだろうか。欧米のメジャーオケのような貴金属的な輝きには乏しいけど、上質の綿のような肌触りが感じられる。とくに弦楽器は、しなやかでビロードのように柔らかい響きはとても魅力的だ。しかも有機的な均質感があるために、オーケストラ全体(特に弦楽器!)が一つの生命体のように反応する。ただし、アンサンブルとしては、キメの甘さが感じられる。アインザッツや音楽のタテの線でも、以前、メータとの来日公演でブラームスを聴いたときよりも明らかにレベルダウンしている。これはマゼールとの共演関係の密度にも関係するのだろうけど、イスラエル・フィルのアンサンブルは精密機械的なものではなくて、あくまでも有機的なアンサンブルなのかもしれない。これは、一つの魅力との裏表の関係なんだろうと思う。

 まず4番。マーラーの交響曲の中では異質な世界を醸し出すこの曲は、室内楽的な透徹した響きが求められ、最も再現が難しい曲のひとつだろうと思う。そんな曲であっても、マゼールのアプローチはやっぱり「あざとい型濃厚系」。特徴的だったのは3から4楽章にかけての遅さ! これ以上、遅かったら音楽として窒息死してしまうのではないか、と思うほど。管楽器やソプラノは大変だったろうけど、決して透徹した美しさを失わないから、ただの「濃厚系」ではない。4番を聴いて感動したことはこれまでなかったんだけど、これは良い演奏だ。静かに曲が閉じても、マゼールのタクトはしばらく下ろされる事なく、沈黙がホールを包み込む。静寂も音楽の一部である。

 休憩後の「巨人」、これはどちらかと言うと「あざとさ」が目立った演奏。ちとやりすぎて音楽の流れを阻害する一面もあったように思うけど、これもマゼールらしさかもしれない。聴くほうとしても一夜にこの2曲だと、カツ丼と天丼を同時に注文するようなもので、ちょっと胃にもたれる。4番ではマゼールのほうが上だったけど、「巨人」ではベルティーニの勝ちといったところか。とは言っても、久しぶりにマゼールらしい音楽を一夜、良くても悪くてもやっぱりマゼールはナマに限る。