カルミナ・クァルテット

(文中の敬称は省略しています)

●98/10/12-13 カルミナ・クァルテットの奏でる音楽を、どのように形容するべきだろうか。「清涼」「透明」「鋭利」「精緻」「繊細」・・・どれもカルミナ・クァルテットの音楽の一面を言い表している。しかし、どれもしっくりとこない。どの言葉も舌足らずで、カルミナを形容し得ていないのだ。そもそも音楽を言葉に置き換えるのは、無意味だ、間違っている、不遜な態度だ、という意見もある。音楽家は、その音楽をもってすべてを言い尽くさなければならない。それを言葉に置き換えて、どれほどの意味があるのだろうか、という意見ももっともである。しかし、その音楽を聴き、そして感動し、記憶にとどめたい、と思うとき、やはりその音楽を、なんらかの言葉に置き換えてみたいと思うのも自然な感情ではないだろうか。録音なら、そのCDなりテープなりが手許に残る。その限りにおいては、あえて記憶に留めよう、という作業は伴わないかもしれないが、これがコンサートで一期一会の音楽であるとするならば、聴き手は何らかの形で記憶に留め、また聴けなかった人たちにその感動を伝えたいと思うだろ う。カルミナ・クァルテットのカザルスホールでの2夜にわたる公演は、その気持ちを改めて呼び起こしてくれるコンサートだった。

  カルミナは、スイスのチューリッヒに本拠を置く若い世代のクァルテットである。私たちがスイスに抱くイメージのひとつにアルプスの山脈があるのではないだろうか。カルミナの奏でる音楽は、たぶん、多くの人がアルプスに抱くイメージに近いのではないだろうか。清涼で高潔、精緻にして繊細、その反面、厳冬のアルプスを吹き抜ける風のような鋭利さを秘めている。カルミナのアプローチは、どの作曲家の曲を演奏するときでも基本的には同じように聴こえる。シューベルトだから歌曲的に歌わせよう・・・とか、ベートーヴェンだから渋く、ブラームスだから重厚に・・・などという作為はほとんど感じない。彼らは、透徹した譜読みと、徹底的に研ぎ澄まされた技巧から、音楽を再構築していく。これによって作曲家の個性が埋没してしまうわけではなく、より作曲家の表現したいことが明確に浮かび上がってくるのが不思議である。そして、これまでの弦楽四重奏団の演奏とカルミナのそれと比較すると、きっとカルミナの演奏は一枚も二枚もヴェールを取り払ったような明晰さを感じるに違いない。

 私は、フル・オーケストラが奏でる交響曲でも、またグランド・オペラであっても最大級の賛辞のひとつに「室内楽的」という言葉を使う。カルミナ・クァルテットは文字通り「室内楽」だから、このような言葉を使うのは本来は不適切なのだろうけど、やはり「室内楽」の規範となるべきひとつの方向性を示しているクァルテットだろうと思う。時として「機能性」と「音楽性」という言葉は対立するかのように使われるが、カルミナに限ってはそのようなことは断じて、ない。絶対的なテクニックに裏付けられた音楽性こそが、カルミナの最高の武器である。今回の演奏会では、鋭利な刃物で切り取ったようなベートーヴェンの4番、透徹した音によって堅牢な構造を見せたブラームスの2番、そして妖刀のようなテクニックで鳥肌がたつような音楽を聴かせてくれたベルグの四重奏曲は忘れがたい。

 帰り際にホールの係員に聞いたところ、カルミナ・クァルテットは来年も来日するとのことである。ぜひともショスタコーヴィッチの弦楽四重奏曲を演奏してほしい。