新国立劇場
ロッシーニ「セビリアの理髪師」

(文中の敬称は省略しています)

●98/10/09 ううむ・・・こーゆー上演って、一番書きにくいんだよなぁ。「セビリアの理髪師」といえば、ロッシーニのみならず、イタリア・オペラをも代表し得る作品だ。でも、ロッシーニのオペラは日本では上演回数が極めて少ない上に、「セビリア」に関しては93年に藤原歌劇団の上演を見たはずなんだけど、ぜんぜん記憶に残っていない。ロッシーニのオペラのCDも、実はアバドの「ランスへの旅」しか持っていなくて、代表作である「セビリアの理髪師」すら持っていない有様なのだ。私の頭の中では、ロッシーニのオペラは完全にエアーポケット状態な上に、その良さが分からないでいる。良く言えば、白紙の状態でオペラに接することが出来るんだけど、こんなんでえらそーな事、書けるわけない。

 で、最初に結論をいうと、良いのか悪いのか、よくわからない上演だった。歌手についてはとても高い次元でバランスが取れているように聞こえるんだけど、トータルでこれがホントにロッシーニの音楽なのだろうか・・・、そーゆー疑問が頭を離れない。たぶん最大の問題点は、ロッシーニにつきものの「羽のような軽やかさ」が感じられないのが原因なんだろうけど、そのような「固定観念」を取り払えば意外と良い上演だったのかもしれない。私個人としては、物語はハッピーエンドにもかかわらず、幸せな気分になれない上演だった。

 まずロジーナを歌ったガスティア。コロラトゥーラの技法に難があったけど、トータルでは魅力的な声を聴かせてくれたと思う。舞台上での容姿も、十二分に美しく魅力的だ。ただしロッシーニに彼女が似合うかというと、これは難しい。ヴィオレッタを歌わせれば彼女にぴったりなんだろうけど、ロッシーニの軽やかさを彼女が表現し得たかと言うと、やっぱり疑問だ。しかし、これはガスティアの問題と言うよりは、キャスティングの問題である。この日のステージ上のガスティアは、彼女自身が持ち得る魅力はきちんと伝えたんだろうと思う。伯爵を歌ったヒメネスは、しなやかで軽い歌声の持ち主で、間違いなくロッシーニ系のテノールだろう。フィガロを歌ったフロンターリも、語り口の巧みさが光ったし、バルトロを歌ったプラティコ、バジリオを歌ったコロンバーラも歌では文句のつけようがない出来だったように思う。

 管弦楽は、2月の「椿姫」で間延びした音楽で不満を感じたベニーニだったけど、今回は引き締まった音楽を聴かせてくれてその点では満足。しかし東フィルからロッシーニらしい音色を導き出せたかというと問題で、クレッシェンドを軽やかに駆け登っていってほしかったんだけど、それに似合う軽やかな音色ではなく、やっぱり東フィルらしい引き締まった密度の高い音なのである。この日の音楽からロッシーニらしさが希薄だった原因の多くは管弦楽だったのでは、と思っている。ただし、東フィルの名誉のために言っておくけど、東フィルがもち得る実力は出し切った上での不満だから、あとはキャスティングなり指揮者なりの問題だろう。

 演出は、ちょっと変わりモノ。なんと舞台はメキシコと思しき中南米に移されてしまった。オペラ・ブッファとしての喜劇性を強調した演出で、さまざまな仕掛けが凝らされていて、これはこれで面白い。ちと意味不明な内容もあったけど、「ロッシーニらしくない『セビリアの理髪師』を創ろう」という意図であったとすれば、それはそれで歌手や管弦楽を含めて首尾一貫したものだっただろうと思う。

 カーテンコールでは、好意的な拍手とブラボーが優位だったけど、一部の歌手と演出家にはブーイングが飛んだ。私はお義理程度の拍手しか出来なかったけど、決してヒドイとか悪い上演ではなかった。たぶん、どの出演者もスタッフも手抜きはしていないと思う。問題があったとすれば、キャスティングをした側にあったのではないだろうか。