東京二期会オペラ劇場
モーツァルト「フィガロの結婚」

(文中の敬称は省略しています)

●98/07/31 これまで二期会というと、モーツァルトは必ず日本語で上演を行っていた。字幕スーパーがなかった時代ならいざ知らず、字幕スーパーが普及してからも日本語上演にこだわってきた二期会が、なんと「初めて」原語(イタリア語)上演を行うのが今回の「フィガロの結婚」である。プログラムの巻末に公演監督の「原語上演」に関するコメントがあったけど、なんとも遅すぎる対応といわざるを得ない。もちろん日本語上演が悪いというわけではないけど、日本語上演でホントにきちんとセリフを聞き取れるひとがいるのだろうか? 少なくとも私は日本語上演で満足に聞き取れたためしがない。これならば字幕スーパーのほうがはるかにマシである。原語の語感の美しさとあわせて考えれば、ほとんどの演目について「原語上演」のほうに軍配が上がると思う。例外としてはオペレッタとか「ヘンゼルとグレーテル」のような演目は、日本語上演のほうが効果的なこともあるとは思うけど。

 休憩は2幕終了後の1回だけで、6時半に始まった公演が終わったのが9時40分位だっただろうか、・・・長時間の公演が余計に長く感じられた一夜だった。その原因の多くは指揮者(管弦楽)と演出にある。まず管弦楽についてだが、手堅い伴奏で安定感はあるのだけど、「フィガロの結婚」特有の溌剌とした明るさが感じられない。序曲から終わりにいたるまで平板で、起伏や色彩感の乏しく、何がいいたいのか伝わってこないのだ。これでは3時間半を聴きとおすのは難しい。この原因の多くは指揮者・大勝秀也にあったと言って間違いないだろう。この日の公演を聴く限りでは、破綻なくまとめる力量は感じられても、それ以上の魅力は感じられなかった。事実、カーテンコールでは、ブラボーに混じってブーイングが聞き取れた。

 次に演出について。まず冒頭からして変なのだが、フィガロの新居を支度しているのはフィガロやスザンナではなく、その下と思われる召使たちなのだ。フィガロは巻尺と戯れ、スザンナは帽子を自慢しているだけ。召使でも上の位として位置付けられているようなのだ。フィガロは平民の代弁者として、伯爵に対して機知に富んだ仕返しをする設定が面白いオペラなのに、「上級従僕」みたいな設定ではフィガロに対して共感が持てない。さらに、第1幕の、伯爵の悪巧みを知ったフィガロの独白「殿様がダンスならば」では、怒りに任せて机の上の物をひっくり返したり、椅子を蹴飛ばしたりするけど、このように「怒り」を露骨に出すフィガロには幻滅を禁じえない。フィガロはあくまでも軽妙な知恵者であるべきじゃないだろうか。さらにフィガロが散らかした部屋を、召使たちが掃除して回るというシーンも興ざめ。フィガロに対して何様のつもりだ!と言いたくなる(^_^;)。舞台装置も、第1幕から3幕まで同じ装置の使いまわしで、いたって簡素。新国立劇場の新しい舞台機構はまったく使っていないみたいだ。管弦楽も平板なら、演出はそれ以上に平板でつまらないものといわざるを得ない。

 それに対して、歌手はなかなかの健闘を見せたといってよいのではないだろうか。東京文化会館と比べるとホールの容積は小さいので、歌手にかかる負担はかなり小さくなる。PAを使っていたのかもしれないけど、どの歌手も、声量的な意味での不満は感じなかった。まず、フィガロを歌った池田直樹はよく通る声で演技力も及第点。伯爵夫人を歌った島崎智子は、最初は声が出ていなかったけど、幕が進むにつれて表現力の幅が広がってきた。スザンナの名古屋木実も、以前に比べると声量が豊かになっていて、引き締まった軽やかな声が美しい。伯爵の青戸知は、以前の絶好調な時から比べるとちょっと物足りないけど、内容的にはそこそこの出来だったと思う。ただしケルビーノの菅有美子はミスキャスト。彼女のしっとりとした声は「女性的」過ぎて、少年っぽさが出てこない。もっと硬質な声の歌手じゃないとケルビーノには不自然だろうと思う。菅有美子としては持てるものを出し切った歌唱だとは思うけど、役柄を考えるとかなり変だ。

 全体的に見ると、かなり残念な出来映えと言わざるを得ない。二期会は歴史と伝統ある歌劇団なのに、なぜ、その積み重ねを感じさせないのだろうか。毎回、毎回、新人歌手の発表会みたいな雰囲気を感じてしまうのは私だけ? プログラムを見ると「フィガロ」だけで、もう11回目のプロダクションを組んでいるんだから、もう少し練り上げられた舞台を見せてほしい。二期会は、もっともっと聴衆の目を意識するべきだ。