デプリースト=都響のショスタコーヴィチ
(文中の敬称は省略しています)

●1998/05/13 まず最初に一言。このコンサートを聴けなかったショスタコーヴィチ・ファンは、絶対に後悔するべきだ。交響曲第11番「1905年」はショスタコの中では名作とは思えないけど、演奏次第ではその評価を覆すことを証明した名演奏だったんじゃないだろうか。このところ低迷していた都響の定期演奏会だったけど、今日のコンサートは「やれば出来るじゃん!」という声があちらこちらから聞こえてきた。このようにテンションが高い演奏を聴くのは、インバル以来のことだ。

 この日のコンサートは、ジェームス・デプリースト。小児麻痺のために足が不自由だけど、大柄な後ろ姿からは強烈なオーラを感じる指揮者だ。スケールの大きいタクトさばきは、オーケストラから最大限の集中力を引き出す。このような資質は、努力によって生み出されるというよりは天賦の才なのかもしれないけど、このようなオーラはゲルギエフ、インバル、鄭明勲といった指揮者からも感じることが出来る。デプリーストは細部にはこだわらなずに、音楽の大きな流れを大事にするタイプなのかもしれないけど、そのタクトから生み出される繊細なppからスケールの大きいfffまでスケールの大きい音楽を創り出す。

 ショスタコの交響曲第11番「1905年」は、その名の通り1905年のロシアでの血の日曜日事件に始まる革命を描いた標題音楽だ。この事件は1917年のロシアのプロレタリア革命につながっていくのだけど、ショスタコーヴィチの作曲家生命が微妙な時期に書かれたこの作品は社会主義リアリズム的な標題音楽で、さまざまな革命歌や労働歌が織り込まれ、血の日曜日事件の軍隊による一斉射撃と倒れる群衆の姿が音楽の中に描写されている。もちろんショスタコ特有のアイロニカルなメッセージも含まれているのだろうけど、他の作品に比べると皮肉っぽい雰囲気は希薄。でも純音楽としてみるとあまり面白い作品だとは思えないし、ショスタコの交響曲の中では平凡以下の作品じゃないだろうか。

 だけど今日の都響の演奏は凄かった。静寂と紙一重のppでも音の密度を失わないし、ホールを溢れんばかりの大音響でも決して音が汚くならない。いつも不満に感じる管楽器も大健闘で、これがいつもの都響と同じオケなのだろうかと、耳を疑ってしまった。家の中でCDの演奏を聴いていてこの曲を理解できななら、ぜひともこのようにダイナミックレンジの広い生演奏を聴くべきだろうと思う。名曲という評価にはつながらないまでも、この曲を見直すきっかけになるんじゃないだろうか。

 5月22日はサン=サーンスのオルガン交響曲をメインとしたプログラムが組まれているけど、これも楽しみになった。今回のショスタコのように都響が本来持っている力を発揮させれば、とても感動的な演奏会になるんじゃないだろうか。

 さて、前半は同じくショスタコのピアノ協奏曲第1番で、ソリストはディーナ・ヨッフェ(pf)と福田善亮(tp)。聴き手として集中力がイマイチだったせいもあるけど、あまり良い演奏だとは思えなかった。オケが遠慮しすぎているような感じで、ピアノとの掛け合いも迫力を感じなかったし、ピアノの音が浮き上がってしまって解け合わない。Tpの福田善亮は好演だったけど、・・・全体的には面白い演奏ではなかった。