尾高忠明=紀尾井シンフォニエッタ東京
(文中の敬称は省略しています)

●1998/04/11 いつも4月の紀尾井シンフォニエッタ東京の定期演奏会は、桜のシーズンに行われる。上智大学脇の土手は桜の名所の一つとして知られているけど、残念ながらほとんどの桜は散ってしまって、新緑の間に申し訳なさそうに桜の花が残っている程度だった。あと1週間、定期演奏会が早かったら良かったのに・・・。この日の紀尾井ホールは8〜9割程度の入りで、バルコニー席を中心に空席が目立った。

 まず前後を挟むのは弦楽四重奏曲の編曲版である。ベートーヴェン/マーラー編曲はもちろん、ショスタコの室内協奏曲も弦楽四重奏曲第8番をバルシャイが弦楽合奏に編曲したものである。まず「セリオーソ」だが、この曲は弦楽四重奏曲が有名なだけに、分厚い弦楽合奏で演奏される、もともとの内向的かつ厳粛な雰囲気が潰れてしまって、失われてしまったものの方が大きいと言わざるを得ない。その点、バルシャイが編曲したショスタコの「室内交響曲」(弦楽四重奏曲第8番)の編曲は素晴らしい。室内学的な透明感を生かしつつ、シンフォニックな響きを加えることで新しい世界を構築しているように思える。尾高=KSTの演奏も、引き締まった硬質な音をベースにスピーディに音楽を展開して、この日で一番聴き応えのある演奏を聴かせてくれた。

 ベルトの曲のタイトル「フェスティーナ・レンテ」は、プログラムによると「急がば回れ」という意味らしいけど、同一の主題が何度か繰り返される単純な構成だけど、何となく瞑想的な雰囲気を携えている。瞑想的という意味ではマーラーの「アダージェット」(交響曲第5番第4楽章)も同じだけど、マーラーの方が遙かに人間的な体温を感じることが出来る。こちらは良く知っている曲だけに、演奏の問題点も感じてしまった。なによりもデュナーミクの幅を広く取りすぎて作為的なために音楽の流れを阻害しているように感じるし、第4楽章だけを取り出して演奏するのはちょっと違和感がある。マーラーの交響曲の場合は一部を取り出して演奏するのは、ちょっとそぐわないのではないだろうか? あと新実徳英への委嘱作も演奏されたけど、弦楽器の金属的な音色を駆使した作品だけど、個人的にはよく解らない曲だった。

 しかし、・・・KSTは聴く度に魅力が減退しているように感じるのは私だけだろうか。オープニング公演で聴かせてくれたダイヤモンドのように美しい弦楽器の音は、今日も聴くことが出来なかったし、プログラミングも凝りすぎていてあまり面白くない。初心に還ってハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンなどの古典的な曲をメインに取り組んだ方が良いのではないだろうか?