井上道義=京都市交響楽団
(文中の敬称は省略しています)

●1998/03/08 この演奏会の2日前に知人の訃報に接することになった。私よりはかなり年上だけど、平均寿命からみると若すぎる年齢である。私も歳を重ねるに連れて人の死に接することも多くなったけど、親しい人の訃報の悲しさは変わらない。彼は波乱の多い人生だったけど、酒と詩が好きな人で、いつも優しい表情でいろいろな話をしてくれたを思い出す。

 彼の通夜が3月8日の夜に決まった。この日は2時からすみだトリフォニーホールで井上道義指揮京都市交響楽団の演奏会、私は黒のスーツで行くことになるとは思いもしなかった。この日の曲目はR・シュトラウスの「4つの最後の歌」(Sp:中丸三千繪)とマーラーの第5交響曲である。京都市交響楽団は、1990年から音楽監督として井上道義を迎え、専用の練習場を備えるとともに京都市コンサートホールをフランチャイズとして定期演奏会を行うオーケストラだ。ハードウエア的な環境で言うと、東京のオケと比べて遙かに恵まれた環境にあるが、京都市長の一言で評判が良かった井上道義が更迭されてしまい、後任にウーヴェ・ムントが就任することになってしまった。多分、東京でこのコンビを聴く機会は最後だろうと思う。

 「4つの最後の歌」は、シュトラウス晩年の名作で、ヘルマン・ヘッセやアイヒェンドルフの詩をテキストに死を予感させる浄化された世界が描かれる。管弦楽は確かにシュトラウスらしい技巧が駆使されているけれど、「ティル」や「アルプス」のような派手さはなく、澄み切った透明感が求められる。その意味では井上=京響はなかなか良い演奏を聴かせてくれたと思うけど、ソリストに問題ありだった。中丸三千繪の声を生で聴くのは初めてだけど、ウワサ通り声が通らない。ほとんどのシーンで声が管弦楽に埋没してしまって、声が聞こえないのだ。それなりに綺麗そうな声ではあるけれど、これで本調子だとすると大ホールで歌うのは苦しいし、ましてやオペラではPA抜きでは難しいだろう。

 休憩後はマーラーの交響曲第5番。最初からかなり遅めの演奏だったけど、終わってみればインターバルも含めて73分、家に帰ってからいろいろなCDの演奏時間を見たけれど大体70分は超えている。演奏時間としては普通なのだろうけど、随分とテンポを落とした演奏のように聞こえた。既に京都の定期演奏会で演奏済みの曲なので、機能的に見ても破綻はないし、井上のかなり濃密な表現を要求するタクトのもとでもまとまりの良い演奏を聴かせてくれたけど、マーラーとしては陰影感とか険しさとかが乏しいし、緊張感・テンションの高さがあまり感じられない。そのかわり優しさとか、穏やかさを感じる。好みは分かれるだろうけど、私はこのように優しさが感じられるマーラーも好きである。第4楽章のアダージェットは、なかなか感覚的にピタッと合う演奏は少ないけど、この日の井上道義=京響のアダージェットはテンポを落として浄化された世界を美しく表現してくれた。目を瞑って聴いていると、故人の柔らかな表情が思い浮かんでくる、そんな気持ちに寄り沿った演奏であったことに感謝したい。