藤原歌劇団「椿姫」
(文中の敬称は省略しています)


●1998/02/24 2月中旬からインフルエンザらしき症状で体調を崩してしまった。夜もろくに眠れないほど咳き込んでいると非常に体力を消耗するうえに、寝床で「椿姫」の原作本などを読んでいるとヴィオレッタの気持ちもわかるような気になってくる。デュマ=フェスの原作は、ヴェルディのオペラよりも遙かに悲劇的で、ヴィオレッタは最期までアルフレードには会えなかった。彼女の死後にパリに帰ってきたアルフレードは、ヴィオレッタの死を確認するために墓を掘り起こして屍となった彼女と再会することになる。もはや美しかった面影などどこにも残っていない屍である。彼に残されたのはヴィオレッタが残した手記、そこにはアルフレードへの切々たる思いが書きつづられていたわけだ。

 藤原歌劇団の「椿姫」の演出を担当したペッペ・デ・トマージは、このデュマ・フェスの原作の世界をオペラにも持ち込もうとと意図した演出である。21日の舞台を見て、ずーっとこの演出のことを考えていたんだけど、これはこれで非常に面白い演出だと思うようになってきた。これは決してイヤミではないのだけど、安全運転路線の藤原歌劇団が「ブーイング」を集める演出を採用したこと自体、評価すべき事だろう。「椿姫」は上演回数が多いオペラの割には、新しい取り組み、前衛的な演出が少ない演目である。トマージの演出は前衛的とは呼べないけれど、少なくとも私が見た「椿姫」の中では最も意欲的な演出であることは間違いない。この演出の意図はプログラムには書かれていなかったけど、開演前に五十嵐喜芳氏が解説を行ったらしい。私はこの解説は聞いていないのだけど、若干のニュアンスの違いはあるけれど初日の感想と大筋では違っていないようだ。

 悲劇を予感させる前奏曲が始まると同時に幕が開き、ヴィオレッタの墓の前にたたずむアルフレードが登場する。すぐに舞台は暗転し、ヴィオレッタの家の中には競売にかける品を物色する債権者達が浮かび上がる。そして舞台前方では召使アンニーナからアルフレードに1冊の手記が渡される。彼は舞台上手のテーブルで手記を読み始めると、「椿姫」の物語が始まるわけだ。つまり「椿姫」の物語全体がアルフレードの回想というかたちで綴られるワケである。このあたりはデュマ=フェスの原作に近い展開だ。

 「回想」という位置付けを強調するために、第2幕第1場、ジェルモンがヴィオレッタに別れを迫るシーンでも、パリに出かけたはずのアルフレードは舞台上にいる。第3幕、結核に苦しんでいるヴィオレッタが、一縷の望みをかけてジェルモンからの手紙を読み上げるシーンでも、つねにアルフレードは舞台袖のテーブルで手記を読んでいる。この辺までは初日の演出と同じだったけど、ラストのヴィオレッタの死のシーンが違っていた。初日は、ヴィオレッタは椿の花が敷き詰められた舞台奥の暗闇に向かって歩いていったように記憶している。しかし4日目は暗闇ではなく、ステージは明るいまま。客席も照明がつけられてステージ奥に設置された鏡に客席も映し出される。これは初日の演出の方が好ましかったと思う。

 この「椿姫」、オペラの演出としては考えすぎの演出かもしれない。オペラを何よりも声の饗宴だと考えている人には邪道かもしれない。しかし個人的にはなにか問題意識のある演出は好きである。謎解きをするような気持ちをもって1回目よりは2回目の方が楽しめたし、可能だったらもう一回見たいとさえ思った。ただしオペラの演出としては改善の余地が大きいのも事実だろう。問題は説明的なシーンが多すぎることだ。もう少し、スッキリとした展開は出来なかったのだろうか・・・と思わざるを得ない。

 この日のヴィオレッタは美貌のソプラノ、アンドレア・ロスト。彼女もヴィオレッタに好適なソプラノで感情的には訴えるものが多いけど、声の美しさやコントロール、テクニックの面ではトマスの方に軍配が上がる。ロストとトマス、この2人のどちらを取るかは好みの問題になりそうだけど、個人的にはトマスの方をとる。アルフレードを歌ったオクタヴィオ・アレヴェロは、前半は声が出ていなかったけど後半は美しい声を聴かせてくれた。しかしこちらも初日のアローニカの方が好み。ジェルモンは初日と同じセルヴィレだけど、出来映えは同様で物足りなさが残る。声楽陣では全体的には初日の方が良かったけど、最大の問題は管弦楽だ。オケは東フィルなのである程度の水準は期待できるのだけど、指揮者ベニーニが大問題で歌手と噛み合わずにズレることしばしば。初日も不満だったけど、4日目に至るまで全く同じ問題点を解決できないのだから明らかに指揮者の問題だ。これまで聴いた「椿姫」の中で最悪の指揮者じゃないかと思う。もうちょっとまともな指揮者だったら、音楽的な評価は全く違ったものになると思うのだが・・・・。