新国立劇場「アイーダ」
(文中の敬称は省略しています)

●1998/01/23 新国立劇場のオープニング・シリーズの最後を飾る「アイーダ」の公演。「建-TAKERU-」「ローエングリン」と失敗を重ねてきたオペラの起死回生をかけた公演だったけど、その結果は如何に。

 まず最初に、この公演最大の注目点は、巨匠フランコ・ゼフェレッリの演出・美術・衣装だろうと思う。この点については掛け値なしに素晴らしい。このオペラで最高の見せ場である第2幕第2場の凱旋のシーンは、その壮麗さに度肝を抜かれる。幕が開くと思わず拍手が起こったけど、それもうなずける。これまで藤原歌劇団の舞台を見て、なかなか豪華だと思っていたけど、このゼフェレッリの舞台を見た後だとスケールの違いに愕然とするばかりだ。モニュメントの巨大さ、レリーフの彫りのリアル感、重厚な柱が林立し、舞台を豪華に彩る。贅を尽くしながらも、決して華美ではないし悪趣味にはならないのがゼフェレッリの良いところだ。登場人物のメイクも非常にリアルで、これまで見た舞台とは水準が全く違う。舞台上での動きなど、細部にまで神経が行き届いた演出はオーソドックスな正攻法で、新しさは感じないけれどゼフェレッリの持ち味を最大限に生かした演出だったと言えると思う。

 歌手は、グレギーナもクーラも登場しない完全な「裏キャスト」。ファンティーニ(アイーダ)、水口聡(ラダメス)は、舞台のスケールを考え合わせると役不足は否めない。特に水口は地下の墓場のシーンの声は満足がいくものだったが、前半は声の出ていなくてかなり不満だった。プログラムには「スピント・テノール」と書かれているけど、聞いた感じではラダメスとしては柔らかすぎる声だ。ファンティーニは、この舞台としては声量が今一つ。もう少しドラマチックな演出が欲しかったけど、力で押しまくるタイプではなく、表現力に長けたなかなかの実力派で、今度は他の役でも聴いてみたい。アムネリスを歌ったテレンティエヴァは、声量や存在感ではいちばん光っていたけれど、このヴィブラートが不自然に大きく個人的にはあまり好みの系統の歌手ではない。その他の歌手や合唱団は、一定の水準をキープしていてまぁまぁのレヴェル。

 しかし、この舞台の最大の問題は指揮者ナヴァッロ。この人ひとりでこの舞台を失敗に導いたと言っても決して過言ではない。ゆるゆるに弛緩したテンポと緊迫感のない音楽は、この日の舞台の劇的緊張度を著しく阻害した。ヴェルディの起伏に富み、緊張感溢れるドラマチックな音楽を、この人はどのように理解しているのだろうか。舞台のスケールと比較すると聴き劣りがするのは明らか。オケの新星日本交響楽団も、機能的な問題点をしばしば露呈したけれど、最大の問題はナッヴァーロのタクトであったのは疑いない。いくら良い演出家を呼んで豪華な舞台を作っても、オペラの生命とも言える音楽がこのレヴェルでは評価できない。たとえキャストがグレギーナ&クーラであったとしても、管弦楽がこのレヴェルでは満足させるのは難しいだろう。

 この「アイーダ」は、ゼフェレッリの舞台としては見るべき点が多かったけど、その反面、音楽的内容の乏しさを露呈してしまった。私としては、この日の舞台はまたしても失敗だった、という結論しか導き出せない。