カテリーナ・イズマイロワ

(文中の敬称は省略しています)


●96/11/05 ゲルギエフ=キーロフ歌劇場によるショスタコーヴィッチ「カテリーナ・イズマイロワ」(東京文化会館)  昨日見た「ムツェンスク郡のマクベス夫人」のスターリン批判から31年を経て改訂し、タイトルをも変えて世に送り出したオペラである。 猥雑な台詞をカットし音楽的にもより洗練された跡がみえるが、ストーリーは全く同じ。 2日続けて聴きに来ている人じゃないと、その差には気が付かないで終わってしまうかもしれない。しかし、演出は音楽的な差以上にカテリーナを変えてしまった。

 まず「マクベス夫人」(初演版)のカテリーナは、狡猾でカテリーナへの欲望をかくそうとしない舅ボリスのよって、「抑圧された女性」として描かれている。 使用人セルゲイとの関係も強引に迫られた結果であり、性的に満たされてこなかったカテリーナはそれに従ってしまった。 主体性が希薄なカテリーナ・・・つまり、悲劇のすべての原因は舅や使用人による「抑圧」として描いているように見えた。

 対する「カテリーナ・イズマイロワ」(改訂版)で描かれている舅ボリスは単なる頑固オヤジで、カテリーナへの性的欲望は希釈され、 カテリーナもただ抑圧されるだけではなく、ボリスへの反発も内包している女性として描かれる。 また使用人セルゲイとの関係も強引ではあったとしても、この抑圧から逃れるための主体的な「選択」として行われているように見える。 つまり悲劇の原因は、カテリーナの子細かもしれない「選択」によるものなのだ。

 2つの版による演出は、第一幕第一場に大きな違いがある。 その第一場での登場人物があらわれ、大まかな人間関係も決まってしまうのだが、前日とは舞台配置も大きく変化し、人間関係の子細な違いまで表した巧みな演出に見えた。 舞台装置は決して豪華ではない。横板を打ち付けた壁が前後左右を囲み、その壁が動くことによって様々な場面に変化する簡素な舞台装置である。 しかし、その壁が「抑圧」の象徴であり、舞台転換の度に閉められる前の扉の鍵を持つ者が舞台を支配しているのだ。 その支配者は、最初は舅ボリスであり、舅と夫を殺害した後は使用人セルゲイが扉を支配する。

 このオペラをこのキーロフ以上の水準で見ることは、当分の間、出来ないかもしれない。 指揮者、オケは前日と同じように見事。歌手も多少の差はあれ、高い水準でバランスがとれている。 しかしこのオペラは様々な可能性を持ったオペラだ。演出によってカテリーナの人間像を大きく変えてしまう。 「火曜サスペンス」系や「「金妻」系に演出することも出来るだろうし、「オカルト」的に演出することも出来る。 そのような意味から言うと、大野=東フィルによって演奏会形式で上演された「マクベス夫人」(初演版)は、このキーロフよりも官能性では秀でた上演だったと思う。 もちろん様々な力量ゆえの限界点はあるのだが、個人的には大野=東フィルでうけた衝撃も忘れられない。

 20世紀オペラの多くは、古典的なオペラよりも人間の心理に肉薄したものがほとんどだ。その視点を変えるだけで様々なオペラに変貌する可能性を秘めている。 ぜひ日本のオペラもチャレンジして欲しいと思う。