ティレジアスの乳房

(文中の敬称は省略しています)


●1996/09/03 サイトウキネン・フェスティバルのオペラ公演を見に松本文化会館へ。このホールや松本市のことなどは近日中に詳しくまとめる予定なので、今日は公演の中身のことだけ。

 サイトウキネンを聴くのは昨年のストラヴィンスキー「道楽者のなりゆき」に続いて2度目だが、オケのコンサートは聴いたことがない。今回のオペラ公演のプーランクは1時間程度の作品なので、前座(?)にバルトークの「弦楽のためのディベルティメント」が演奏された。一日でオケとオペラが両方楽しめる「一粒で二度おいしい」公演である。この曲はもちろん弦楽器だけの編成だが、世間ではこのオケは弦の評価が高い。

 実に60人という大編成で演奏されたが、ホールの容積を割り引いて考えても、音の厚みや音量は国際的水準である。ロシアやアメリカのオケと比較しても遜色はないだろう。音のテンションもピンと張り詰めていて、その意味では世間の評価もうなずける。しかし曲目がバルトークということもあり、民族的な独特のリズムを堪能することは出来ても、音色の美しさを堪能できるような曲ではない。その意味での評価はまたの機会に譲りたい。ただ、この曲目を選んだ真意がよく解らない。メインのプーランクと、どこにつながりがあるのだろうか。ただの時間調整だとしたら、もう少しの工夫を望みたい。

 さて、メインの曲はプーランクの喜歌劇「ティレジアスの乳房」。曲の解説はサイトウキネンのホームページがあるので詳しくは書かないけど、荒唐無稽なシュール・リアリズム(超現実主義)の作品。男女同権を訴える女房の乳房が風船となって飛んでいって彼女は男性になる。亭主は人工的に子供を産む手段を発見して、4万50人の子供をもうけるが、最後にはお互いの愛を再確認して「みなさん、子供をつくりましょう」と訴えて幕となる。

 音楽的にはとても解りやすく、軽妙でフランス的なエスプリに溢れている。しかし、管弦楽の扱いが後景化され、オペラ全体に占めるオケの比重は小さい。また歌手に対しても美声よりも演劇的な表現力が要求されているような感じがする。したがってこのオペラで最も比重が高かったのは、デイビット・ニースの演出である。フランス地中海風の海岸のイメージを背景に、荒唐無稽な喜劇が繰り広げられるのだが、オケや指揮者も演出の駒に組み入れられ、さまざまな趣向が凝らされている。この演目だとそれほど演出の選択枝は多くはないのかも知れないけど、そのアイデアの豊かさは満員の会場の好意的な反応を引き出すのには十分すぎるものだった。

 この演目である限り、これ以上は望む必要がない、とても水準が高いものだったと思う。昨年の「道楽者のなりゆき」のカーテンコールでは戸惑いがちの拍手が多かったような感じだが、今年の拍手は明らかに昨年とは違うホットな反応。この演目で、このオケと歌手では無駄では・・・という声もあると思うし、それももっともだと思う。オケの聴かせ所はないし、美声を聴かせるアリアがあるわけではない。そこにこれだけの配役を持ってきても無駄があるのかもしれない。しかし「贅沢」と「無駄」の間にある境界線を何処にひくかは、観る側の感性に委ねられている。私はこの贅沢なオペラを観ることが出来て、とても幸運だったと思っている。(1996/09/08)