1996年7−8月のこんさぁと日記

(文中の敬称は省略しています)


●1996/08/25 昨日は秋葉原に行って、久しぶりに石丸のCD売り場を覗いて見た。秋葉原はいつも行っているけど、コンピュータの部品を見るだけで、CDなどは滅多に買わない。私はかなり珍種のクラシック・ファンなのかもしれないけど、録音系にはほとんど興味がない。一応、年に一回、日本レコード協会主催の廃盤セールで50枚くらいいっぺんに買うことはあるし、人並み程度のCDは持っているけど、最近では聴くことが少なくなってしまった。これだけコンサートに行っていれば、家で聴く気持ちにならないのは当然かもしれないけど・・・。

 そんな訳で、2−3ヶ月ぶりにCD売り場に入ったのだけれども、な、なんとEMIのアルバンベルグSQのベートーヴェンSQ全集10枚組みが6,980円で売られているではないか! ううむ、なんでこんなに安いんだ・・・と思いつつ、レジに持ち込んでしまった。またORFEOから発売されたチェルカスキーの1968年のザルツブルグ音楽祭でのライヴ録音2枚組みを発見! 値段は4、360円と高かったけど、これは見逃すわけにはいかない! モノラル録音と表示があるのだけれど、音の鮮度はそれほど悪くない。多分、放送用に録音したものなのだろうが、感想は機会があったら改めて。

 しかし、このABQの値段とチェルカスキーの値段の差はどこからくるんだろう。まぁ、チェルカスキーのCDはマニアしか買わないし、多分、初出だから元をとらなきゃいけないんだろう。でも一枚あたりの値段が3倍とは、いくらなんでも差が大きすぎるぞ。(1996/08/25)


●1996/08/22 久しぶりに「音楽の友」を買った。以前は毎月買っていたけど、置き場所に困って買わなくなってしまったのが数年前。でも毎年9月号と2月号だけは買ってしまうのはコンサート・ゴアの宿命か!? 2月号は前年のコンサートベストテンで、9月号は来年の来日演奏家速報、一応、これで来年のコンサート計画をたてている。

 バブルの崩壊が叫ばれて久しいけど、来年の来日演奏家情報を見る限り景気は悪くないような感じがする。オペラでは5月にくるMETは随行するどの歌手の名前を聞いてもスゴイと言うしかない。盛りは過ぎたとはいえ、三大テノールのうち二人が揃うし、マイヤー、ゲオルギュー、グレギーナ、バルトリなど名前を挙げればきりがない。演出には見るべきものはないと思うけど、超メジャーな演目だからチケットは争奪戦必至。チケットはいくらになるんでしょうね。バレンボイム率いるベルリン国立歌劇場は、ベルリンの壁崩壊前の水準からどれだけ回復したかが見物だと思う。でも個人的に注目なのは、ケント・ナガノが振るリヨン歌劇場。どんな過激なオペラを見せてくれるのか刺激的だとおもう。

 日本でも新国立劇場が10月に出来るけど、委嘱新作にはまったく興味が持てない(^_^;)。よりによってあんな作曲家に委嘱しなくてもいいだろうに・・・。「ローエングリン」も「アイーダ」も、苔むした演出を輸入して、いまさら何になるのか。せっかく国立のオペラハウスが出来るのだから、日本でしか見れない演出でプロダクションを組もうという気概くらいは持って欲しいですね。

 あんまりリートを聴きに行く習慣がないのだけれど、歌手ではクラウスとカバリエは一度聴いておきたいと思うし、マイヤーも今が聴き頃かも知れない。

 オケや器楽の話は、また改めて・・・。(1996/08/22)


●1996/08/17 チェリビダッケが14日、パリの自宅で逝去したという報道。先日はクーベリックが亡くなり、次々と巨星の去っていく印象がぬぐえない。クーベリックに関しては実演に接する機会はなかったけど、チェリビダッケ=ミュンヘン・フィルは、1990年10月10日にオーチャードホールでブルックナーの交響曲第8番を聴いたことがある。極限的なスローテンポで100分に渡って繰り広げられた演奏は、このコンビ以外には絶対に不可能と思われるすさまじいものだった。

 磨きぬかれたピアニッシモと驚異的なダイナッミクレンジ、遅くはあるけれども決して音楽的な密度が薄くなることはない。聞き手にはすごい集中力が要求されるけど、これだけの個性をもった指揮者、いや指揮者に限らず個性的な演奏家はなかなか現れないだろうと思う。チェリビダッケはずっと録音を避けてきたので、多くは残されていないのが残念だけど、やっぱりあれだけの緊張感を要求する演奏をホール以外のの場所で聴くのは難しい。ただ聴くだけならともかく、その音楽に没頭することは録音では不可能ではないだろうか。その意味ではチェリビダッケの録音嫌いは正しかったと思う。

 もう、コンサートホールで、あの美しいピアニッシモを聴くことが出来なくなったのは残念というしかない。 


●1996/08/05 今日は音楽とはまったく関係ない話。私がホームページを作っている環境は、windows95がinstallされている自作のIBM互換機で、5月の連休中に作ったこのホームページを公開してからそろそろ3ヶ月になります。最初はHTMLのことなんて全然知らなかったけど、Word95にアドオンする「Internet Assistant」のおかげで簡単につくることが出来ました。HTMLへの取っかかりとしてはとても使いやすいツールだと思います。なによりもタダというのが嬉しい。

 ところがフレーム機能には対応していなかったり、不必要なタグがいろいろと残骸のように残ってしまったり、java を組み込もうとしてもダメだったりと、Internet Assistant だけでは不満が出てきて、ふつーのeditorで「Shura Cherkassky」 と「コンサートホール」にはフレーム機能を組み込みました。あとjavaも組み込んだりしているので、このホームページを見るのにはNetscape Navigater2.0 か Internet Explorer3.0 以降が必要となりました。私は最初に使ったブラウザが Internet Explorer2.0だったので、なるべくフレーム機能は使わないようにしていたのですが、ver3.0になってフレーム機能に対応し、β2になってから少しは安定してきたようなので、フレーム機能にチャレンジしたわけです。  

 これまでは遅いブロバイダだったので、なるべくテキスト中心のページを作ろうと心懸けてきたのですが、そろそろこのページもグラフィカルに充実していきたいと考えています。


●1996/07/27 二期会の「ワルキューレ」を再び見に行く。キャストは21日とまったく同じ、したがって基本的な傾向は変わっていないのだが、2回目とあって良くなった点もあった。特に管弦楽は、良く鳴るようになって、ポカも減った。ところどころで金管がへたったりしたけど、この公演の中では一番の収穫だったとおもう。

  歌手はジークムント(成田勝美)が問題。初日よりも音程が悪く、第一幕「冬の嵐は過ぎ去り」以降は聴いていてかなり苦しかった。でも、代わりにに誰が歌えばいいかと問われると困ってしまうので、成田勝美の問題というよりもワーグナー・テノールが存在しないという日本の歌手層の薄さの問題なのだと思う。ヴォータンの多田羅迪夫も後半は声が枯れてしまって苦しそうだったけど、日本のバリトンの第一人者にしてこうなのだからやっぱり難役なのだろう。しかし、こういった歌手の層の厚さの問題も、指揮者の方である程度カバーできたのかもしれないとも思う。大野和士はかなり管弦楽を鳴らしていたけど、鳴らしすぎなんじゃないかと思うこともしばしば。あの音量を突き抜けるような声量を全幕にわたって出しつづけるのは難しいだろう。ワーグナーは歌手がダメでも管弦楽が良ければ聴けてしまう不思議なオペラなのだけれども、それが逆に災いしているのかもしれない。

  次に演出について一言。西澤敬一の演出も酷いとは思わないけど、あえて二期会のリング第2サイクルにまで取り上げるような演出なのだろうか。はっきり言って見るべきものがないし、新しいものや、なにかに挑戦する姿勢がまったく感じられない。今日のようにビデオで世界中の演出が見れるような時代に、あえて古い演出で取り組む意味があるのだろうか。二期会というと栗山昌良と西澤敬一しか演出していないような印象があるけど、そろそろ新しい息吹があらわれても良い頃だとおもう。(1996/08/01)


●1996/07/21 二期会「ワルキューレ」。日本の歌劇団の水準が高くなってきたと言っても、ワーグナー、しかも「リング」となると特別な感じがある。今日の公演もなんと11時半開演で、終わったのが16時半。長丁場で、歌手には強靭さと声量が要求される。

  今日のキャストで問題があったのは、やっぱり男声陣。ジークムントを歌った成田勝美は、どちらかというとリリックなテノールなので、ワーグナーには向かない。ヴィブラートがかかった声は、他の演目ならともかくヘルデン・テノールの歌い方ではないだろう。頑張っているのはわかるけど、第一幕の終わりの方では、かなりへばってしまったのは残念。ヴォータンの多田羅迪夫も、出だしは良かったけど第3幕後半のブリュンヒルデとの別れの場面では声がかすれてしまった。対して、敵役のフンディングを歌った志村文彦は大健闘。神様や英雄よりも立派だった(^_^;)。

  女声陣の一番の注目は、ブリュンヒルデを歌った緑川まり。もともとの声質はブリュンヒルデ向きではないと思うけど、そこは実力がある歌手だけに見事にまとめたといっていいと思う。声量、声の艶、滑らかさは、今日、登場した歌手の中ではぴか一だった。しかしこーゆー演目はほどほどにして、声は大事にして欲しい。ジークリンデの岩井理花もその役目は立派にはたしていたし、フリッカの寺谷千枝子も見事な悪妻ぶり(^_^;)。

  オケは大野和士指揮の東フィル。なかなか頑張った演奏を見せたとは思うけど、決めて欲しいところで決らなかったり、ポカもしばしば。きっと土曜日の公演ではもっと良くなっていると思う。でも一番足りなかったのはワーグナー独自の香りだと思う。この点では、以前に聴いた若杉−都響の方がはるかに良かった。

  演出の西澤敬一は、まぁ、オーソドックスなもの。照明などで工夫は凝らしてあったものの、取り立てて書くこともない。舞台装置は財政難の二期会としては立派なものを用意していたと思う。カーテンコールで一番拍手を集めていたのは、大野和士、次いで緑川まり。会場は9割以上は入っていたが、途中で帰った人も多かったようだ(^_^;)。私も寝不足から第3幕で眠くなってしまったが、眠るべき第2幕で寝なかったのが失敗。長丁場では聴く側も、集中力の配分を考えないといけないと思った。でも全体として見れば、なかなか立派なワーグナーだったと思う。


●1996/07/09 ABT(アメリカン・バレエ・シアター)のマスネ作曲「マノン」を見に東京文化会館へ。

  私は雑食性音楽ファンなので、ほとんどジャンルを問わない。バレエ音楽といえば一番有名なのがチャイコフスキーだと思うけど、彼の作品の中ではバレエ音楽が一番充実していると思う。でもその割にはコンサートでは取り上げられることが少ない。通俗名曲過ぎるのか…とも思うのだが、音楽としては不遇な扱いを受けていると思う。フェドセーエフがモスクワ放送響と来日したおりに「白鳥の湖」抜粋を演奏したのを聴いたけど、これは素晴らしかった記憶がある。舞台付き音楽だとテンポはバレリーナ優先で決められてしまうけど、コンサートだと純音学的に演奏できる。バレエもほとんど音楽の一環として「聴き」はじめたのだが、いつの間にか舞台の方にも興味を持ってしまった。しかしバレエには年に2−3回しか行かないので、マジに素人である。

  ところでバレエの上演に接しはじめてから驚いたのだけれど、バレエの現場での音楽の扱いには一種のカルチャーショックを受けた。オペラでもカットは慣用的に行われることはあるけど、演出家が他の曲からから勝手に持ってきて編集するなんてもってのほかで、昨年のボリショイ・オペラの「イーゴリ公」が演出家によって編集されていたのを見ただけである。しかしバレエでは、そんなことは日常茶飯事のように行われている。現代バレエでチャイコやマーラーなどの作曲家の曲が用いられるのは解るけど、今回の「マノン」は英国ロイヤルバレエ芸術監督(当時)だったケネス・マクミランがマスネが作曲したいろんな曲を寄せ集めて「マノン」の物語にあわせたものである(編曲はリートン・ルーカスという人物)。マスネはオペラで「マノン」を作曲しているが、あえてオペラの同曲からは引用しないで他の曲から選んだとのこと。こんなことをオペラでやったら(できないとは思うけど・・・)大ヒンシュクであるが、バレエではこれがマスネ作曲の作品として堂々と通用してしまうのである。せめて「マスネ作曲(マクミラン編)」くらいの表記はできないものあろうか。

  さて、本題。「マノン」というとオペラ・ファンがまず思い出すのはプッチーニの「マノン・レスコー」である。物語の大筋は同じで、バレエ音楽の方も寄せ集めとは思えないほど良く出来ていたのでびっくりした。マノン役にはアレッサンドラ・フェリ、騎士デ・グリューにはフリオ・ボッカという配役だが、この二人が実に良かった。オペラとバレエで比較するのは暴論だとは思うけど、小澤=NJPのオペラで見たマノンには魅力的な女性としての説得力が希薄だった。けれどフェリが演じるマノンは実に魅力的である。こーゆー人なら多少の浮気心は許してしまう・・・かもしれない、と思った(^_^;)。美しい容姿は言うに及ばず、目線の配り方、手足や表情の仕草のひとつひとつに木目細やかな神経が配られている。はじめて彼女の舞台を見たけど、ファンになってしまった。デ・グリュー役にはあまり重要な位置付けは与えられていなかった感じだけど、マノンとの濃厚な愛の場面なんかは、良く息があっていたんじゃないかと思う。アクロバット的なテクニックを見たい向きにはお勧めできないけど、いわゆるオトナ向けの演目である。チャールズ・パーカー指揮の新星日本交響楽団も好演。終演後には主役二人がなんどもカーテンコールに応えていた。


●1996/07/05 新日本フィル定期に久々で登場の井上道義を聴きにオーチャードホールへ。曲目は前半に前衛的な作品2曲と、休憩後に「幻想交響曲」というもの。

  まず一曲目はルーマニア生まれでハンガリーの作曲家クルタークの「クワジ・ウナ・ファンタジア」(1987-88)で日本初演。約10分の短い曲だが、演奏者のほとんどが舞台上ではなく客席に配置されているというシアターピースが重視された作品。私は3階席の後ろの方なので、どこにどーゆー楽器があるのかさっぱり解らなかったが、きっと一階席の人は楽しんだのではないだろうか。こーゆー曲は録音されることは、まずないだろう^_^;。つづいてギリシャの作曲家クセナキスの「シナファイ」だが、私にはさっぱり解らなかった。こーゆー曲は、よっぽど体調が良くないとダメである。

  後半はベルリオーズの幻想。この曲も作曲された当時は超前衛的作品であったのだろうが、今では通俗名曲である。今日の前半に演奏されたクルタークとかクセナキスの作品も、いずれは通俗名曲になるのかもしれない。井上はかなり遅いテンポで、音量にもメリハリをつけた濃厚な演奏を指示した。金管や打楽器が強調されるシーンが多く、後半はオケはかなりバテてきた感じがしたが、なかなかの力演だったと思う。ただ解釈としてはあざとすぎて、どうも好みではなかった。


●1996/07/03 紀尾井ホールのレジデント・オーケストラである紀尾井シンフォニエッタ東京の定期演奏会。このオケの概略はコンサートホール情報にも書いたので参照して欲しいのだが、尾高忠明を首席指揮者、リーダーに原田幸一郎、澤和樹を迎えて結成された室内オーケストラである。「本籍」はソリストであったりオケのメンバーだったりする人が多いので、厳密には「臨時編成」のオーケストラに分類されるのかもしれないけど、年間5回の定期演奏会を行っているので「常設」と呼んでも差し支えないかもしれない。このオケは、昨年4月のホール開設と同時に演奏活動を開始したのだが、その当初から驚くばかりの演奏水準を見せてくれた。アンサンブルの精度、音の密度、ホールの鳴らし方など、出来たばかりのオケの水準をはるかに超えていたのだが、それもその筈。このオケの練習時間がすごい。ホールのスケジュール表を見ると、ホール貸し切りで5日間も練習にキープしているのである。ホールのレジデント・オーケストラとして、まさに理想的な関係である。

  プログラム1曲目は、シュニトケの「合奏協奏曲第一番」。なんともシュニトケらしい曲だと思うけど^_^;、2人のVnソリスト(景山誠治、澤和樹)に対して弦楽合奏がストレスをかける。この関係の間を沼尻竜典が弾くチェンバロとピアノ(弦にコインが挟んであって金属的打楽器のような音もする)が時間のテーマを刻む。私の拙い文章で表現するのは不可能なので、ここで説明はあきらめることにするが、音楽的には奇妙でもテーマは非常に現代的な閉塞的ストレスみたいな感じなので、ある意味では面白く解りやすい。初めて聴いた曲なのだが、この曲のテーマに良く似合った緊張感のある音が出ていたのではないかと思う。特に二人の独奏者のかけあいは、この曲にとって大事な部分を体現していたのはないかと思う。

  2曲目は委嘱作初演で、安良岡章夫の「アンティフォン〜25の独奏弦楽器のための」。はっきり言ってシュニトケのあとに演奏されたのは不遇で、聞き手としてはこーゆー曲が2曲も続くと緊張感がもたない。評価はパス。

  休憩後はチャイコフスキーの弦楽セレナーデ。このオケの水準なら…・と期待していたのだが、残念な演奏だった。オケの問題というよりは指揮者・尾高忠明の解釈の問題だとおもう。まずこの曲の音としては重過ぎる。音を厚く鳴らしすぎて、セレナーデ的な雰囲気が聴きとれない。さらにリズムの刻み方が恣意的で、音楽の流れが寸断されてしまう。テンポも楽章によってかなりいじられていた。

  アンコールはチャイコフスキーの「エレジー」で、そのあとにステージ・マネージャーの宮崎隆男の楽壇生活50周年を祝う花束贈呈が行われた。


●1996/07/02 私は「もちろん」行かなかったけど、6月29日、国立霞ヶ丘競技場で行われた三大テノールのおはなし。本来、私は他人の趣味に口を挟むのは本意ではないのだが、今回ばかりはちょっと我慢がならない^_^;。 この公演に行った人にとっては腹立たしい文章かもしれないので、そーゆー方は飛ばしてください。

  三大テノールとはパヴァロッティ、ドミンゴ、カレーラスの事だが、ナマで聴いたことがあるのはパヴァロッティとドミンゴだけ。何れも前回来日したMETでの事である。どちらも全盛期は過ぎているのは確かなのだがやはり素晴らしい歌手であることには疑いがない。ドミンゴなんかは登場するだけで舞台の雰囲気を変えてしまう歌手だし、パヴァロッティの見事にヌケきった歌声は他では味わうことは難しいだろうとおもう。しかし、いくら3人揃ったとしても国立競技場で、しかもPAから響く声を聴いてS席75,000円はめちゃくちゃとしか言いようがない。なんとも信じられないことに、会場には主催者発表で7万を超えた人が集まったとのことだが、これが本当なら平均価格4万円と低く見積もったとしても28億円の興業収入があったことになる。更に放送権収入などを見込める。ぜひともこの収入の行き先を知りたいものである。

  この公演が適正な価格を超えているのは言うまでもない。何をもって「適正な価格」と言うかは買う側の判断に委ねられていることだとしても、原価と販売価格の関係から常識的な価格を超えていることには疑いがない。私がこれまでに払った最高のチケット価格は、クライバーの振ったウィーン国立歌劇場の「ばらの騎士」で、B席55,000円である。このことをオペラを知らない人にいうと「変な人を見る目」で見られてしまうが^_^;、今回の三大テノールのコンサートに比較すればはるかに適正な価格である。少なくとも「ばらの騎士」は中身のある公演だったから。

  今回の三大テノールの公演はPAを使った公演だが、いかに声が良くても、これでオペラ的な意味でまともな声が聴きとれるとは思えない。東京ドームでポピュラーのコンサートを聴いた経験から言っても、あとからテレビで放送された音を聴いた方が良かった。レヴァイン=フィルハーモニア管弦楽団だって、PAを通して聴いたらどこのオケだっていっしょにきこえるんじゃないだろうか。こんな紛い物の公演に、ほんとうにオペラ・ファンが7万も集まったのかだろうか。少なくとも私の回りにいるオペラ・ファンで行った人は全然いないし、「聴く耳」と「適正な価格」を判断できる人が行く公演だとは思えないので、ホントのオペラ・ファンが7万も集まったとは思えないのだ。

  こんなめちゃくちゃで拝金主義的な公演が堂々と行われ、さらに満員になり、それがオペラ・ファンの姿だと思われるとしたら、非常に腹立たしいことである。


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