96年6月のこんさぁと日記

(このページはあくまでも日記です。文中の敬称は省略しています)

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●1996/06/30 サントリーホールで行われた諏訪内晶子のヴァイオリン・リサイタル。チケットは売り切れで会場は満員。いま大ホールを満員に出来る日本人ヴァイオリニストの筆頭に挙げられるのが五嶋みどりとこの諏訪内晶子じゃないだろうか。

  話はいきなり変な方向に飛ぶけど、五嶋みどりと諏訪内晶子を見ていると、少女漫画の「ガラスの仮面」に出てくる北島マヤと姫川亜弓を思い出してしまう。美貌と血筋に恵まれながら影ですさまじい「努力」をしている姫川亜弓と、平凡な容姿と恵まれない家庭に育ちながら「天才」的な才能をきらめかす北島マヤをめぐる演劇テーマにした漫画である。最初の音を聴いただけで「天才」的なきらめきを感じずにはいられない五嶋みどりに対して、諏訪内晶子は「努力」の人という印象がある。ふつうチャイコフスキー・コンクールで優勝したら、その経歴を武器に商業ベースに乗り出すのだろうけど、彼女の場合はさらにジュリアードに留学してドロシー・ディレイに師事し、自分のヴァイオリンに磨きをかけた。その結果、自分の納得できる演奏水準に達した自信が出来たのだろう、日本国内では実に久しぶりのリサイタルである。漫画のなかでは北島マヤと姫川亜弓の対決には決着がついていないけど(もう何年連載してるんだ^^;)、ヴァイオリンの世界では現在、五嶋みどりのリードが大きい。

  私が諏訪内のヴァイオリンを初めて聴いたのは、1989年、彼女がエリザベート・コンクールに2位になった直後に行われたコンサートである。その時には特に感銘は受けなかった。普通の「ヴァイオリンが上手なお嬢様」といった感じである。チャイコフスキー・コンクールの優勝を決めた演奏も、印象は変わらなかった。しかしその翌年あたりに行われた日本音楽コンクール??周年記念ガラコンサートでショスタコーヴィッチのヴァイオリン協奏曲を聴いた時、印象はいっぺんに変わってしまった。まず選曲のショスタコーヴィッチ、いわゆる「お嬢様」が演奏するような曲ではない。さらに凄かったのが演奏内容、彼女は恐ろしいまでの集中力と白熱した情熱を曲に注入していた。その時以降、彼女は「努力の人」なんだ、…という印象を持った。演奏家が成長する過程を目の当たりにしたようなインパクトがあったのだ。今日のコンサートも、その成長する過程を確かめるためにチケットを買った。

  前置きが長くなったが、演奏内容。まず音色であるが、これは素晴らしい。ジュリアード系らしく、密度が高くてひきしまった音には贅肉がまったくない。とぎすまされた音とはこのような音のことをいうのだろう。聴く人によっては金属的で冷徹な印象を持つかもしれないけど、武満の「悲歌」なんかはぴったりだと思うし、プロコフィエフのソナタ第一番なんかは鋭角的な音が良く似合う。テクニックも安定していて申し分ない。しかしブラームスのソナタ第2番は如何なものか。彼女の音には、味わいという意味では物足りなさを感じる。料理では塩の使い方が成否の決め手になるという話だけど、彼女の音を塩味に例えると純粋なNaClなのである。味わいのある塩には多くのミネラル分が含まれているらしいが、彼女のヴァイオリンからはそれを感じることは出来なかった。少なくとも私がイメージするブラームスとは、まったく違う音である。美しいことは美しいのだが、それ以上のものでもなければそれ以下でもない。ブラームス独自の哀愁とか、独身男の悲哀みたいなものがまったく抜けおちてしまった。

  観客はなかなかの盛り上がりを見せたけど、彼女ならそれ以上の反応を引き出せる演奏が出来るんじゃないだろうか。今回の選曲はテクニックだけではごまかせない曲ばかりで、彼女は表現力で勝負したかったのかもしれないけど、その意味では成長の余地はまだまだたくさんある。五嶋みどりの演奏はすでに完成された音楽を聴く楽しみだけど、諏訪内晶子は成長する楽しみがある。どちらも注目のヴァイオリニストだ。

  アンコールはチャイコフスキーの「なつかしい土地の思い出」から「メロディ」、ヴィエニャフスキの「スケルッツォ・タランテラ」、そしてドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」。


●1996/06/28 藤原歌劇団のヴェルディ作曲「トロヴァトーレ」の初日を見に東京文化会館へ。ヴェルディ中期の傑作だけど、4人の名歌手を揃えないとダメなので日本で上演されるのは久しぶりじゃないだろうか。いや、本棚を探してみたら1994年7月に二期会の公演プログラムが出てきた。しかし、不思議なことにまったく記憶に残っていない^_^;。私の記憶力に問題が有るのは否定しないが、憶えていないのは上演の水準にも問題が有ったのではないかと思う…^_^;。

  さて、今回はマリア・グレギーナがレオノーレを、アルベルト・クピードがマンリーコを歌ったが、どちらもなかなか素晴らしい歌唱を披露してくれた。グレギーナは出だしで音程が定まらなかったのが不安だったけど、幕が進むにつれて声が出てきた。この役にはすこし声が重く、高音部でやや苦しさを感じさせるが、張りがあって十分な声量で表現力もなかなか。クピードは以前に藤原で上演した「ルチア」で聴いたことがあるけど、この人の美声は素晴らしい。ドミンゴの声を細くしぼった感じで、リリックな歌声はそれだけで快感。しかし喜怒哀楽の表現の幅が狭く、怒りの場面でも恐怖の場面でもおんなじような歌い方をするのは残念。ルーナ伯爵のフランコ・ジョーヴィネ、アズチェーナのマリアーナ・ベンチェーヴァ、オーケストラもまぁまぁで大きな不満は感じなかった。「すっごく感動した」という事はなかったけど^_^;、これだけの水準の「トロヴァトーレ」を日本で見ることは今後も少ないんじゃないかと思う。総じて水準の高い舞台に仕上った。

  演出はオーソドックスなもの。舞台装置は経費削減のためにミラノ・スカラ座から拝借したものらしいが、ちまちました舞台転換には歌劇場としての機構の差を感じずにはいられない。しかし、この「トロヴァトーレ」という演目はテーマがくらいなぁ。決して照明のせいだけじゃない。

  ところで、秋以降の藤原の上演スケジュールが明らかになった。詳細はこちらの方だけど、それ以外に来年の6−7月には「フォヴォリータ」、9月には「カルメン」が予定されている。キャストの詳細は不明だけど、カルメンにはアグネス・バルツァが登場するかも…。


●1996/06/26 カザルスホールで行われたハレー・ストリング・カルテットの定期演奏会。第2ヴァイオリン奏者の松原勝也が退団し、読響コンマスの篠崎史紀に替わってから初めての演奏会である。私の席の前には、偶然にも松原勝也が、配偶者の鈴木理恵子さん同伴で座っていた^_^;。

  ハレーの定期はこれまで26回を数えているが、そのほとんどに通ってきた。継続して聴いている唯一のカルテットであり、私にとっては弦楽四重奏団のひとつの基準でもある。そのカルテットが結成10年を迎えてはじめてのメンバーチェンジをすることになった。カルテットのメンバー・チェンジは、言うまでもなくオーケストラの弦楽器奏者が一人替わるのとは、問題の重みがまったく異なる。それは下手をすればカルテットの命運にも関りかねない。今回の定期は、ハレー・ファンにとっては、いささか不安の多い定期演奏会であった。

  このカルテットの特徴は、漆原啓子の艶やかで美しい1stVnがリードしていること。他の3人は、多くの場合、(誤解を恐れずに言うなれば)「脇役」に徹して音楽を下支えする。もちろん曲の性格によっては、4人の個性がぶつかりあい、その勢いが音楽を特徴づけることもあるが、カルテットとして年輪を重ねるにつれて漆原のVnがリードすることが多くなったように見受けられる。この特徴は、新生ハレーではどうなったのか・・・結論から言うとハレーの美点は失われていなかった。

 まず、ハイドンのSQ61番「かみそり」は、いささか重たい演奏で、漆原のVnも充分には鳴っていなかったような感じ。でも武満徹の「ア・ウエイ・ア・ローン」は、4人の技量が高い次元で調和して、安心して聴くことが出来た。そしてこの日の白眉は、休憩後のベートーヴェンSQ13番。後期のベートーヴェンをこんなに味わい深く聴かせてくれるとは想像しなかった。4人の弦楽器が、前半とはまるで違う楽器のように美しく鳴りはじめ、各パートの音の分離は申し分ない。テンポの早い1-2楽章では、以前のハレーと同じように漆原のVnがリードして音楽の芯を形成し、他のパートが肉付けしていくパターン。3-4楽章は、舞曲風に優雅な演奏。5楽章は敬謙な祈りを体現し、6楽章は発足当事のハレーを思い出させる勢いのある演奏を披露。楽章によってメリハリのある、そして奥行きが深い演奏だった。

 ハレーは変わったのか、…・確かに変わったのだが、うまく言葉で説明できないのが残念である。篠崎も少し遠慮があるのか、脇役に徹していたような印象で、実に微妙な変化を遂げているのだが、それは良い方向なのか、悪い方向なのか解らない。今後の活動を見極める中で判断してくしかないと思うけど、現時点ですでに音楽として高い水準に達しているのは間違いがない。ハレー・ファンとしては、ひとつの安心とひとつの期待を得た演奏会であった。


●1996/06/25 今日出勤したら、やっぱり昨日放送したキムタクと山口智子の「Long Vacation」の話題で持ち切りだった^_^;。決って見るほど好きではないのだが、私も山口智子ファンであり、放送している時間にたまたまチャンネルが合うと見ていたので、最終回くらいはきちんと見ようと思って家に帰ってチャンネルを合わせた。こーゆー音楽家=ピアニストが主人公になるドラマだと、いろいろと細かい矛盾を追及したくなる方もいると思うけど、音楽的リアリティを追求したドラマではないのでそーゆー見方はストレスがたまるだけである。素直にハッピーエンドを楽しんだ方がいい(^_^)。

  さて、このドラマの舞台となった建物がどこなのかが結構話題になっているらしい。各方面の知り得た情報を総合すると「江東区の隅田川沿いの大きな橋の近く」「背後に三井生命の建物がある」ということらしい。フジテレビにきいても絶対に教えてくれないらしいが^_^;、実際に屋上にはフジテレビの看板やバスケのネットもあるらしい。どこかで調べて場所を見つけたファンがドラマの中で登場したポーズで記念写真を撮ったりして、たむろしているとのことで、周囲の住民からはかなり顰蹙をかっているようだ。

  ところで、キムタクが葛飾シンフォニーヒルズで弾いた曲は、どこかで聴いたような感じもするが、タイトルはよく解らなかった。でも、この曲の楽譜も、きっとたくさん売れるんだろうなぁ^_^;。


●1996/06/22 今日は、毎回きびしいチケット争奪戦になるウィーン・フィルの発売日。プレイガイドも特電で対応するけどbusyの連続。とくに五嶋みどりが登場する10/3の人気はすごかったみたいで、私の電話が通じた10時25分頃には売り切れ。やっぱりこの組合せは、今度、何時実現するかわからないだけに是非ともキープしたかったのだが・・・、私はこの10月3日以外には興味がなかったので、今年はパスすることになりました。ウィーンフィルでは敗北^_^; 


●1996/06/19 サントリーホールでケーニック指揮東京都交響楽団の定期演奏会。これまで1、000回近いコンサートに行ったけど、前半が良くて後半が悪いコンサートというのには、あまり出会った記憶がない。ほとんど前半がダメで、後半に盛り返すというパターンだ。これにはいろんな理由が考えられるがそれは置いといて、結論から言うと今日のコンサートも前半×、後半マルのパターンだった。

  1曲目はシューマンの「マンフレッド序曲」。シューマンの管弦楽曲は私の苦手の上に、オケもまだ鳴っていない状態でダメ。2曲目のゴルトマルクのヴァイオリン協奏曲第一番は、ソリストとしてVPOコンマスのライナー・キュッヒルを迎える。19世紀後半の隠れた「名曲」らしいが、私にはよく理解できなかった。まずキュッヒルの音だが、第一楽章ではまだ楽器が鳴っていなくて、オケを突き抜けてくる音量が不足している。第3楽章に入ってようやくウィーンらしいしなやかで柔らかい音が鳴りはじめた。しかし、この音は室内楽やリサイタルでは魅力的だとおもうけど、都響のような硬質な音にはどうも似合わない感じがする。ゴルトマルクの曲も、あえて取り上げるような曲だとは思えない。

  しかし後半のショスタコーヴィッチの交響曲10番はなかなか良かった。スターリンに対する批判として解釈されるこの曲の複雑な構造を、解きほぐして聞かせてくれたという印象。全体としては軽めの演奏だったので、ショスタコ・ファンには物足りなかったかも知れないけど、どのパートも破綻なく巧くまとめたのは評価して良いと思う。ナマでは聴く機会が少ないだけに、後半だけでも行ってよかった。


●1996/06/15 8−9月に松本で行われるサイトウ・キネン・フェスティバルの発売日。例年、大変なチケット争奪戦が繰り広げられるが、私も昨年に続いて参戦。一番最初に売れてしまうのがオーケストラの土日の公演で、次に土日のオペラ、平日のオケの順番みたい。平日のオペラ公演はかなり遅くまで残っているようだ。(ちなみに今年は平日のオーケストラ公演はなし) 私個人の趣味で、今年のオーケストラ公演には興味はなかったので、オペラ公演を狙って電話、発売後1時間で4回も電話がつながった。4回目につながった11時頃にはオペラはA券しか残っていなかったのでパス。私はもちろん一番安いC券(6,000円)をGETしたので、まぁ満足(^_^)。


●1996/06/13 コンサート7連荘の最終日は、ケーニック指揮の都響。曲目はメシアンの大作「トゥーランガリーラ交響曲」で、ソリストとしてピアノが木村かおり、オンド・マルトノが原田節。13日と14日はへろへろに酔っ払っていたのでホームページの更新が不可となり、今日(15日)となってしまいました。

  「トゥーランガリーラ」はオンド・マルトノという「未知との遭遇」みたいな奇妙な楽器が重要な役割をはたすため、その奏者の原田節が登場するまでは日本では滅多に上演されなかったという話である。現在でも東京で年に1〜2回しか上演されない曲なので、鄭明勲のCDを聴いてお気に入りの曲となった私は、実演に接するのは今回が初めてとなる。会場はいつもより若干少なくて6〜7割程度の入り。その演奏を聴いた感想としては、熱演だったけどいまひとつスパイスが足りないという感じ。たしかに破綻なくうまくまとめたことは良い点として挙げなければならないけど、この曲が本来持っている官能的な部分が抜けおちてしまったのではないか・・・と思ってしまった。「トゥーランガ」はサンスクリット語で時間とか運動という意味で、「リーラ」は愛という意味らしい。その標題性を重視して、めっためたに濃厚に演奏して官能的にするのは簡単なのかもしれないけど、そうすると重層的なハーモニーが埋もれてしまう危険性がある。透明感がなかったらこの曲は面白くないし、官能性が薄れてしまってもダメ、そのバランスが難しいのかもしれない。


●1996/06/12 今日はサントリーホールでケント・ナガノ指揮のハレ管弦楽団。日曜日も満員だったが、平日であるのも関らずSOLD OUT。当日券売り場にはキャンセル待ちの行列が出来るほどで、なかなかの人気である。今日のプログラムは、トマス・アデスという新進作曲家の「…そしてすべてはよしとされる」という曲で始まったが、こちらのコメントはパス。最近、前半のプログラムは集中できないことが多い^_^;。ついでストラヴィンスキーの「火の鳥」1919年版と、後半はベルリオーズの「幻想」。日曜日とまったく同じ席に座ったので音は良くなかったけど、今日のプログラムの方がバランスははるかに良かった。

  ハレ管はソリスト級の奏者が多いとか、めちゃめちゃ巧いとかいうオケではないけど、ケント・ナガノの指揮のもとで全体のアンサンブルを整えて聞かせ所おさえた演奏をしてくれる。アンサンブルもピタリと決まってばかりではないけれど、ツボは外さないという感じだろう。マーラーのように粘っこい音楽をやるよりは、ストラヴィンスキーやベルリオーズのように華麗な音楽のほうが相性がいい。哲学的な音楽よりは、文学的な音楽に適性がある。ケント・ナガノの指揮もみていて非常に解りやすいみたいだし、長い髪をなびかせてタクトを振る姿は女性から見ると「カッコイイ!」と思うタイプなんじゃないだろうか^_^;。結構、高そうな花束をもらっていたなぁ。 


●1996/06/11 ちょっと脱線して天王洲アイル「アートスフィア」で聴いた鬼太鼓座の感想。招待券をもらって行ったのだが、これはめちゃめちゃ面白い。鬼太鼓座は以前、週刊AERAに座長の高久保康子の特集が掲載されていたことなどもあって、機会があったら聴きに行きたいと思っていたのだが、和太鼓の「演奏会」と思って行くとこれがちょっと違う。これは「演奏会」ではなく、形式からみたら「ショー」の方が近いだろう。しかしショーだからといって内容がおちるわけではない。演奏会としての内容は十分に盛り込んだうえでのショーなのである。

  太鼓の強烈な低音がリズムとなって襲いかかり、体を振動させる。その振動が、だんだん自分の心臓の鼓動と区別がつかなくなってきて、リズムと体が一体になったような錯覚におちいってしまうのだ。もともとバスドラムの強烈な低音とか、打楽器がたくさん登場する曲は好きだっただけに、十分に堪能できた。ショーとして息抜きをする時間も設けられていて太鼓だけではなくいろいろな楽器も楽しめる。内容は行ってのお楽しみとしておいた方が良いかもしれない。ただ面白いだけではなく、この面白さの心底にある真剣さには心打たれるものがある。特に座長の高久保康子のまなざし、あーゆー真剣な目はいいなぁ^_^;


●1996/06/10 オーチャードホールで小澤征爾指揮新日本フィルの定期演奏会。曲目はアイブズの交響曲第4番とチャイコフスキーのマンフレッド交響曲という滅多にお目にかかれない選曲。にもかかわらず会場はほぼ満員になるんだから小澤の人気はすごい。

  さて演奏の方だが、アイブズはまったく初めての曲なので、良かったのか悪かったのかはよく解らないが、1910年代の作品としては破天荒の作品といって間違いないだろう。編成も3管編成のオケに混声合唱、弦楽器別動隊、様々な打楽器群と金管楽器群、オルガン、ハープ、チェレスタ、さらにピアノは2台でそのうち一台は四分の一ピッチずれているとのことで、この演奏会を逃がしたら今度いつお目にかかれるかわからない。編成も凄ければ曲もすごい。第一楽章は賛美歌が登場するかと思えば、第2楽章はオモチャ箱をひっくり返したように各パートが無秩序にさまざまな曲を演奏する。第3楽章はとても素敵な弦楽合奏によるフーガ。第4楽章は、ここまで登場した1−3楽章の総決算になる。感想は一言、非常に面白い曲である。第2楽章なんかは、指揮者の腕が5-6本欲しいんじゃないかと思うけど、タクトさばきには定評のある小澤だけにとても巧く仕上げてくれた。

  後半のマンフレッドは、私としては苦手意識が強い曲だったけど、NJPが熱演してくれて、はじめて「いいところもあるじゃないか」と思わせてくれた。小澤はドイツものの評価はイマイチだけど、ベルリオーズとかチャイコは相性が良いんじゃないかと思う。


●1996/06/09 サントリーホールでケント・ナガノ指揮ハレ管弦楽団を聴いてきました。曲目はハイドンの交響曲第1番とマーラーの交響曲第9番。ただし座ったのがステージ裏側のPブロックで、しかもホルンの開口部真っ正面!、ホルンが鳴るとほかの楽器の音がまったく聴こえない状態なので、演奏の評価は差し控えさせていただきます(-_-;)。こーゆーことになると知りつつもP席を買ったのにはいろいろと訳があるのですが、やっぱりこの席に座るとアンサンブルの評価はまったく出来ませんね。チケットはSOLD OUTで満員、終演後はかなり盛り上がっていたけど、私個人としてはマーラーの9番を実演で聴いて感動した例がない。どうもCDで摺り込みが出来上がってしまっていて、バルビローリやバーンスタインと同等の演奏を期待してしまうのと、何等かの思い入れを生みやすい曲なんだろうと思う。

このケント・ナガノ指揮ハレ管は、もうひとつのプログラムの方も聴きに行く予定です。


●1996/06/08 芸術劇場で行われたケーニック指揮東京都交響楽団「作曲家の肖像」シリーズ。今回のテーマはモーツァルトで、交響曲の39、40、41番。はじめに断っておきますが、私にとってモーツァルトは「爆睡の友」で、コンサートに行って眠らない方がめずらしいほど…(^_^;)。だからといってモーツァルトが嫌いだというわけではなく、上質な演奏だったら何をなげうっても聴きに行きたいと思うのだが、あまりにも凡庸な演奏が多すぎる。いや、もしかしたらモーツァルトの演奏は、ほかのどの作曲家よりも難しいのかもしれない。ロマン派以降の作曲家に比べれば、演奏の難易度の差は明白だが、それゆえに単純でまったくごまかしが効かない。すべての楽器が美しく響き、混濁なくきれいに分離して、なおかつ統一感がなければならない。そうでなければきれいなメロディーが流れるだけの演奏会になってしまう。

  今日の演奏は、私が好きな指揮者の一人、ケーニックの登場とあって期待して出かけたのだが、第1曲目の39番は、例にもれず爆睡してしまった(^_^;)。オーケストラは14/12/10/8/6という、モーツァルトにしては比較的大きめの編成で、これでは透明感のある演奏は難しい。まぁ、ホールの容積が大きいから仕方がないし、後期の交響曲だからこれでもいいのかもしれないが、最上のモーツァルトにはならないだろうと思う。でも最後の41番は良かった。ケーニックは、端正でスピーディに音楽を進めるのだが、休憩後の演奏は各パートの楽器もきれいに鳴りはじめ、最後のフーガの盛り上がりなんかも見事だった。ケーニックは凄い才能とか強烈な個性をを感じさせる指揮者ではないかもしれないけど、聴き所のポイントをきちっと押さえてくれる。こんどのトゥーランガリラは楽しみ。


●1996/06/07 サントリーホールで行われた藤岡幸夫指揮日本フィル「20世紀の作曲家たち」シリーズ。最初にショスタコーヴィッチ(バルシャイ編曲)の室内交響曲も演奏されたのだが、これの評価はパス(^_^;)。話はいきなり後半のオルフ「カルミナ・ブラーナ」に行きたい。「カルミナ」の場合、もうひとつの主役は合唱団だと思うが、日フィル協会合唱団が担当。しかし、Pブロックをすべて使用する人数をそろえた割にはffの音圧が低いし、またその人数があだとなって、ppの部分はスースー。一言で言うと音の密度がないのだ。オーケストラはかなりの力演を見せ、指揮者も強烈なリズムを強調し、デカイ音だけではなくppを美しくすることでダイナミックレンジを広げようとする努力はしているように見えるのだが、結果に結び付いていないように思えた。独唱陣は、緑川まりが艶っぽい声と、篠崎義昭が白鳥の丸焼き(?)を振りつきの好演を見せた。大島幾雄はいまひとつ。

  この曲はどーゆー演奏でも、ライヴで聴くと一種の興奮をもたらす曲(^_^;)なので、最後の方は盛り上がりを感じさせてくれたけど、それは演奏の力ではなくて曲そのものの力だったんだと思う。満員の会場はウケにウケていたし、そんなに悪い演奏ではなかったと思うけど、「カルミナ・ブラーナ」のいい演奏はもっと凄いはずだとおもう。


●1996/06/05 東京文化会館でハンブルク歌劇場「リゴレット」。会場は大体8割程度はうまったようだ。「リゴレット」という演目は有名なアリアが多く、聴きやすいオペラだと思うのだが、意外な程実演にせっする機会が少ない。やっぱりプリマドンナ・オペラの方に人気が集まるのか…とも思うのだが、上演回数が多いオペラだと斬新な演出を見ても理解しやすい。しかし、この「リゴレット」に関してはどうだろうか。このハンブルクの「リゴレット」を語るうえで斬新なホモキの演出を欠かすことはできない。幾何学的な箱の中で物語は進行し、登場人物は原色の衣装をまといモンテローネ伯爵は赤、マントヴァ公爵及びその部下は黄色、リゴレットとジルダは青と、色によって明確に性格が分けられている。具象的な舞台装置はほとんど用いられず、オモチャのような家や王冠が様々なモチーフに描き分けられるている。いささか抽象化が過ぎて、始めてこの演目に接する人に、物語を理解できるのだろうか・・・などと心配してしまった程だが、これだけの舞台をわずか36才の演出家が手掛けてしまうのだから、大変な才能だと言わざるをえない。好き嫌いは別にして、一見の価値はある演出だとおもう。個人的には、現実感に乏しい上に、抽象化することでなにを強調したかったのかが不明確な感じがしてかなり戸惑った。

  さて、歌手だがタイトルロールのグルントヘーバーが立派。声に荒さを感じるものの、深々とした声で年老いた道化の悲しさを見事に演じきった。対してマントヴァ公爵の市原多朗はいささか生真面目すぎて、プレイボーイっぽくない。ジルダが身代わりになって命を差し出すというには魅力がイマイチだし、声も細すぎた。彼の良い時に比べると、かなりの差を感じたので、ちょっと調子が悪かったのかもしれない。ジルダのヘンドリックスは、第一幕ではヴィブラートなのか音程のふらつきなのか解らない感じだったが、第2幕に入ってからは素敵な声を聞かせてくれた。

  さて、もう一つの注目は、指揮者・大野和士。ここのオーケストラは飛び切り巧いという訳ではないが、なかなかドラマチックに演奏をしてくれたと思う。しかしイタ・オペ特有の軽いフレーズを鳥の羽根のように演奏して欲しいと思う部分では、物足りなさを感じたのも事実。ドイツの歌劇場に、そーゆー演奏を期待する方が間違っているのかもしれないけど。


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