小澤=NJPのマーラー交響曲第3番

(文中の敬称は省略しています)


●97/10/24 土曜日からコンピュータのHDD入れ替えと新しいコンピュータの組立に没頭して、なかなかホームページの更新する気にならない。ぐちゃぐちゃと配線を変えたり、セッティングをチューニングしたり、ソフトをINSTALLしたり・・・・かなり時間が潰れてしまう。やっぱり一日でコンピュータに向かい合える時間には、限界がある。まぁ、マイペースでホームページを更新しよう。

 今日はすみだトリフォニーホールで行われたNJPの定期演奏会。もちろんこのホールで行う最初の定期演奏会である。NJPとトリフォニーホールの関係や、その意義については折にふれて書いてきたのであえて繰り返さないけれど、ある意味では新国立劇場以上に大きな意味がある出来事だと思う。もちろん新国立劇場と違って肯定的な意味で評価しているのだけれど、一年の半分をNJPが練習と本番でこのホールを占有する以上、NJPは演奏の中でその「結果」を求められる。今日の演奏会は、その第一歩を記すわけだ。

 曲目はマーラーの交響曲第3番。全6楽章、実に100分を要する大交響曲である。(独唱はフローレンス・クイヴァー、合唱は晋友会とオープニング記念少年少女合唱団)この曲は大好きだし、オープニングに相応しい選曲ではあると思うけれど、演奏は私の好みとは明らかに違うものだった。はっきり言って、私が「こうして欲しい!」と思うところで全て、小澤が逆の方向性を指向している感じがした。9月のSKOの「マタイ受難曲」で、素晴らしい演奏を聴かせてくれた小澤だけに、少しは期待していったのだけれど、少なくとも指揮者の解釈には大きく裏切られた。

 小澤が指揮をするときは、オケの縦の線は綺麗に整えられているけれど、音楽の横の線は如何なものか? 様々な楽想が交錯し、分裂的な色彩が強いマーラーの音楽を演奏する場合、その楽想の数々を如何に統一的に結びつけるかが問われることになる。しかし小澤の指揮は、全ての楽想がバラバラなのだ。楽想が変わる度に、音楽の流れが途切れてしまって、全く統一感がない。特に第一楽章は、その傾向が顕著だった。さらにテンポの問題。小澤は遅い部分と速い部分のコントラストをつけたつもりなのだろうけど、完全に逆効果で、音楽の流れを阻害した。さらにアーティキュレーションも変だ。細かく表情をつけすぎて、嫌気がさしてしまう。第6楽章なんかはこの曲のクライマックスで最高に美しい部分なのに、冒頭の弦楽合奏からむせび泣くような表情をつけたおかげで、反対にシラケてしまった。この楽章は人間臭さよりも、全てを悟り浄化された世界を音楽として表現した楽章だと思う。変な表情は無用だ。

 しかしオーケストラは健闘した。管楽器は若干のチョンボがあったけど、音色は実に美しい。弦楽器もゲスト・コンマスのケイニンに率いられて、テンションも高い。なによりもピアニッシモでも密度を失わない緊張感の高さは特筆に値する。これで指揮台にいるのがベルティーニだったら・・・と思わずにはいられなかった。演奏時間は丁度100分、終演後の拍手はちょっと控えめだったような気がする。

 で、気になるホールのことはまた改めて書くことにしたい。今回はデジカメを持っていくのを忘れたし(^_^;)、・・・でも音響に関しては、オープンしたばかりのホールとしては十分に及第点をつけられる水準だろうと思う。このホールとNJPの音が解け合って、日本のオーケストラ演奏史に新たな次元を刻んでいって欲しい、そう願わずにはいられない。