「建・TAKERU」の演奏会評から

(文中の敬称は省略しています)


●97/10/16 15日の三大紙の夕刊に一斉に「建・TAKERU」の演奏会評が掲載された。普段は評論家の演奏会評などはあまり気にしない私だけど、今回ばかりは別である。私の購読紙は朝日新聞だけど、他紙にも掲載されていたという情報を得て職場の新聞を漁ったら、読売と毎日の演奏会評を発見、早速コピーをとった。すべて10月10日のこけら落とし当日の演奏会を批評の対象としているけれど、同じ演奏会だけに評論家の個性が表れる。

 最も異色の批評だったのが毎日新聞武田明倫氏のもの。タイトルは「平板な團の音楽」。全文の8割が「建・TAKERU」のあらすじに費やされ、演奏に対する評価は1割五分、作曲に対する評価はわずか最後の4行だけである。すなわち「團の音楽はかなり平板で、長大な持続を耐えるには辛いものがあった」だけ。初演の評価は、まず音楽の評価に多くを費やされるのが普通だと思うけれども、これは異例だ。あまり好ましい演奏会評ではないけれど、私はこの構成から、マトモな評価に耐える曲ではない、という意図なのかなぁと思ったけど、・・・きっと苦労したんでしょうね。

 読売新聞、白石美雪氏のタイトルは「斬新な作品期待したが」。これはオーソドックスな批評のパターンで、「問題は建と言う人物像に、どこまで聴衆を引きつけることができたかである。(中略)その書法はこれまでの團の手法を発展・成熟させたというより手持ちの駒で終始した感が強い。」と音楽的内容の停滞を指摘。「二十一世紀を見据えての新しい劇場では、もっと思い切って斬新な作品に出会いたかった。」とテーマや作品そのものに疑問を呈している。 最後の現代人の合唱のシーンについては「壮麗な、しかし疑問符の付く幕切れである」「「現代にも通じる平和の祈りを強調した最後の合唱の現代服の衣装も、いささか興ざめである」と辛辣。演出の評価は厳しい。

 朝日新聞中河原理氏で、「舞台を引き締めた最終楽章」と好意的なタイトルが付けられた。「第一幕で天皇との確執が大きく打ち出されながら、これがドラマの軸とはならず、以下、いくつかのエピソードが並ぶ。」と物語の軸の不在を批判。「朗唱を主体とする音楽も、第二幕まではドラマに十分に反映されず、説得力が不足気味で、舞台についてゆく感じもあって、三時間がそれ以上に感じられた。」しかし第三幕以降に関しては好意的で「傷ついでひとり荒野に身を横たえた建が、心を許した老人を相手に人生を振り返るくだりは、心情にじんで傾聴を誘い、全曲がこのレヴェルで書かれていたらと惜しまれた。」西澤敬一の最後の現代人の合唱についてはタイトルの通り「「建が死んだあとの大詰め、オペラの主題曲ともいうべき「倭の国もまほろば・・・・」の最終合唱を東京混声合唱団その他に、今の服装で整列して歌わせ、現代の視点を持ち込んだのは賛成。これで大いに引き締まった。」まぁ、こーゆー見方もあったのか!と驚嘆してしまった。

 評論家という冠があっても、演奏会評についてはあまり当てにしていないのだけれど、今回の評価で共通しているのは「音楽的には(一部を除いては)ダメ」ということ。さすがに誉めようがなかったか・・・という感じだ。あと東京新聞、サンケイ、日経の演奏会評を読んでいないのだけど、もう掲載されたのだろうか。