グァルネリ弦楽四重奏団+相沢吏江子

(文中の敬称は省略しています)


●97/10/10 アメリカを代表するカルテットのひとつ、グァルネリ弦楽四重奏団の2年ぶりの来日公演を聴きにカザルスホールに行って来た。座席は少し空席があったけど、チケットはSOLD OUTとなったみたい。今回の曲目は・・・  前回、来日したときの同ホールでドヴォルザークのプログラムを聴いたけど、そのときの共演者も相沢吏江子でピアノ五重奏曲だった。そのときには、素晴らしく音が美しいカルテットだなぁ・・・と思い、また聴く機会を楽しみにしていた。まず「死と乙女」だけど、第1楽章は音のピッチが微妙にズレているような感じだったけれど、第2楽章に入る前に改めて音あわせをして、何とか持ち直した。相変わらず音が美しいカルテットである。引き締まって、キラキラした絹のような光沢が眩しい感じである。しかし、個人的に好みかというと、・・・ドヴォルザークのようにメロディラインの美しさだけで勝負できるような曲なら良いけれど、内容の深さを問われるような曲だと好き嫌いが分かれるような気がする。私は、いささか金属的な雰囲気、無機的な響きが気になってしまった。潤いとか、人間的なぬくもりが感じられないのである。「死と乙女」の第2楽章では、悲愴感溢れる感情が求められる音楽が物足りない。オマケに4人の求心力が感じられないままで、曲が終わってしまった感じ。

 休憩後は相沢吏江子を迎えてのブラームス。弦楽器の美しさに、さらに磨きがかかる。相沢吏江子のピアノも、以前に比べて表現力の幅が広がった感じで、ブラームスらしい音色のパレットを見事に使い分ける。しかし、「死と乙女」で感じた不満は引きずったままで、第3楽章以降になってようやく燃焼度が満足行く水準に達っしてきた。しかし、ピアノ五重奏曲に共通する疑問なのだけれど、弦楽四重奏にピアノが加わるのがどうしても唐突な感じがして馴染めないことが多い。どちらかが伴奏という位置付けであれば良いのだけれど、主役がはっきりしないまま弦楽四重奏とピアノが絡み合うのがどうも不自然なのだ。どの大作曲家もピアノ五重奏曲は1〜2曲しか書かなかったのは、やっぱり創作意欲が沸かなかったのかなぁ・・・などと邪推してしまったのだけれど、個人的には不完全燃焼のまま終演を迎えてしまった。