新国立劇場に何を期待するか

(文中の敬称は省略しています)


●97/10/09 明日10月10日、いよいよ新国立劇場か開館する。日本のオペラ上演史を画する事業と位置づけらるだろうし、クラシック音楽全般の演奏史の中でもとても大きなエポックメーキングとなる事業である。新聞各紙にも掲載されたし、記念切手まで発売されていやが上にも祝典ムードが高まっているけれども、はたして私たちオペラ・ファンが喜ぶべき事なのだろうか。私が思うに、この「新国立劇場」の実体は、不完全なままで見切り発車され、歌劇場と呼ぶのもはばかれるほどの「歌劇場」なのである。

 日本ではハードウエア優先の発想がされがちで、「歌劇場」といえばその「建物」を連想する人が多いかもしれない。たしかに歌劇場という言葉を狭義で解釈した場合は、建物のこと指すのかもしれないけれど、「建物」だけではオペラの上演は出来ない。「箱もの行政」という言葉があるけれど、名古屋、横須賀、浜松、大津(建設中)などに大規模な舞台装置を備えた劇場が完成しても、その稼働率は極めて低いのが実体である。自前の歌劇団はもとより存在しないし、貸しホールとしてみた場合でも問題が大きすぎる。いくら建物が立派でも、これを「歌劇場」と呼んだら笑われるだけだろう。こんな赤字を垂れ流すだけの能しかないような「建物」は、いくらクラシック・ファンといえども看過することは出来ない。計画段階から大きな問題があったと言わざるを得ないだろう。こんな金があったら、既存のホールを使用し、基金化することによって演奏団体への補助等を充実させれば、入場料も安くなるし安定的な上演、演奏活動も保証される。少なくとも箱ものよりは256倍は有効に活用できると思う。貴重な文化予算を、無駄な箱もので食いつぶされている現実がある限り、日本の文化水準は絶対に高くならないと思う。

 「歌劇場」が「歌劇場」たるためには「オペラを上演するためのシステム」を備えることが必要である。「建物」や「舞台機構」は、上演する歌手・合唱団・管弦楽団が上演するための「手段」もしくは「道具」に過ぎない。ウィーン国立歌劇場やミラノ・スカラ座などが、世界最高の歌劇場として君臨している理由は、建物が立派だからではない。そこで上演されるオペラの水準によって、最高の評価を勝ち得ているのである。もちろん「建物」が単なる「手段」ではなく重要度の高い「手段」なのだろうと思うけれど、あくまでも歌手・合唱団・オケが主体なのであって、その逆ではありえない。その上演するためのシステムを備えていないホールを、歌劇場と呼ぶのに相応しいとは思えない。

 その立場で「新国立劇場」を見た場合はどうか。座付きの管弦楽団も合唱団は存在しない。オケは在京オケが、契約によって交互にピットに入るだけである。このような状況だから、常任指揮者や音楽的に最高の責任を持つ音楽監督と呼ばれる指揮者も存在しない。今回のオープニングの3公演は新国立劇場の主催だけど、実質的には「ローエングリン」は二期会、「アイーダ」は藤原歌劇団が下請けしているのだ。顔は新国立劇場に変わったけれど、中身は従来のオペラ・カンパニーそのままなのである。さらにオープニング公演以降は、「ナブッコ」「セビリアの理髪師」などの公演が組まれているけれど、なんと藤原歌劇団と新国立劇場の「共催」だというのだ。公費が投入されるか否かという違いはあるにしても、これでは従来の「貸し小屋」と全く変わっていない。これで歌劇場と呼ぶのには、あまりにも未熟である。

 さらに今回のオープニングで取り上げる演目や演出にも、全く新味がない。「建・TAKERU」が売り切れたと言っても、本当に團伊玖磨のオペラを見たいと思って足を運ぶ人が何人いるのだろうか。私もそうだけれど、新国立劇場のこけら落としというご祝儀がなければ行かないという人が多数派だろうと思う。少なくとも私の周りには團伊玖磨を評価しているリスナーは一人もいない。私は「夕鶴」や交響曲の自作自演を聴いたことがあるけれど、どう考えても才能がある作曲家の作品とは思えなかった。「御用作曲家」ばりに「祝典行進曲」などを書くセンスも信じられないけれど、なぜ彼の作品がこけら落としの公演に選ばれたのか理解に苦しむ。ちなみに「建・TAKERU」は全3幕、休憩は2回の時間も含めて所要時間は3時間45分とのことである。各幕間の休憩はそれぞれ30分、20分との事なので、正味3時間の作品である。私は聴いたことがないけれど、あの「素戔」よりは短いらしい。この3時間が苦痛にならないことを祈るばかりである。さらにW・ワーグナー演出のローエングリン、ゼフェレッリ演出のアイーダ、いずれも優れた演出家だろうと思うし、集客力もあるだろう。しかし結果が見えている演出家であることも事実で、新しいものを創造しようという意欲が全く感じられない。オープニングとして新味に欠ける出し物と言われても仕方がないのではないか。

 ここに揚げた課題は、今後解決されなければならない問題だろうと思う。最初からすべてを具備するのは難しいとしても、将来的な方向性くらいは明示するべきだろう。一人のオペラ・ファンとして勝手に人選をさせていただくなら、東フィルに座付きオケとして新国立劇場のピットに入ってもらって、鄭明勲を音楽監督に迎えるくらいの思い切った人事を期待したい。いずれにしても明日オープンする新国立劇場、10日は招待客ばかりなので、「建・TAKERU」の本当の評価は11日以降の身銭を切った客が行うことになるだろう。私が行くのは、もちろん11日である。