ケント・ナガノ=サイトウキネン・オーケストラ

(文中の敬称は省略しています)


●97/09/05 今年のサイトウキネン・フェスティバルは、初めて桐朋系以外の指揮者がSKOを振ることになった。日系人指揮者で、昨年、ハレ管弦楽団を率いて来日したケント・ナガノである。なぜ彼が抜擢されたのかは憶測を呼んでいて、小澤が彼を後継者と考えているらしい・・・というウワサも流れた。どうやらケント・ナガノの登場は今年限りという話が流れると、今度は「長野」県のシャレでケント・「ナガノ」を登場させたという珍説まで登場した。私はどれが事実なのかは知らないけど、いずれにしてもケント・ナガノの登場は今年のフェスティバルの目玉の一つであることは間違いない。

 しかしサイトウキネン・オーケストラははそもそも故斉藤秀夫氏の門下生が故人の業績を残すために始まったはずである。だが管楽器にや打楽器奏者に外国人を入れたり、桐朋系とは無縁と思われる奏者が加わったりして、当初の「サイトウキネン」の趣とは異なってきたような気がするのは私だけではあるまい。当初はサイトウキネンを振っていた秋山和慶氏もぜんぜん登場しなくなってしまったし、サイトウキネンというよりは「小澤征爾音楽祭」と言った方が正確なのではないだろうか。それゆえ今から後継者問題がささやかれるのだろう。

 また臨時編成オーケストラが抱える問題もある。一時期、各地の音楽祭やホールで臨時編成のオケが流行したことがあったけど、常設のオケからすると極めて切実な問題なのである。サイトウキネンに限らず音楽祭開催期間中は、常設オケの方はトップ奏者が不在になってしまうわけだから、エキストラを入れて補わなければならない。アンサンブルの低下は否めないだろう。もちろん多くの音楽祭は夏季に行われるので大きな影響はないと思われるのだけど、この春にサイトウキネン・オケはヨーロッパ・ツアーを行った。この期間、トップ級の奏者を引き抜かれたオケにしてみれば、それなりの影響はあったはずだ。

 サイトウキネン・フェスは、日本で最も成功している音楽祭であることは間違いない。チケットは決して安くはないのに、発売当日Sold Outだし、市民ボランティアも参加した松本市の歓迎ムードも衰えていない。しかしさまざまな問題点も抱えているのは事実で、解決は今後に委ねられている。

 この日の曲目は

 どちらかというと編成は小さめで、室内オーケストラ的な曲が選ばれた。まず武満徹の「トゥリー・ライン」、これは「並木」という意味らしいけど、武満が1988年に仕事場の近くにあるアカシア並木のへのオマージュとして作曲した作品とのこと。プログラムの解説によると、この曲は旋律的なものへ回帰していく後期の作品にあたるらしい。この間、デュトワ=N響で聴いた「ファミリー・トゥリー」は確かに美しい作品だったけど、今日の「トゥリー・ライン」は私の波長と合わない。たしかに旋律的なところはあるけれど、中途半端で、どこに焦点が当たっているのか解らない。オケの音そのものも練り混まれていないような感じがして、正直言って退屈でしょうがなかった。

 続いてショスタコの弦楽四重奏曲第8番の弦楽合奏版である。世界的な水準といわれるSKOにとって真価が最も発揮しやすい曲だけど、結論的に言ってしまうと、どうもパッとしない。ショスタコーヴィッチ特有のアイロニカルな雰囲気や張りつめた緊張感がないのである。これは音もテンポも同様で、どうも間延びしてしまっている感じだ。ところどころでテンションの高いSKOらしい音を聴かせてくれるのだけれど、それが音楽として結実していないのだ。これは編曲の原因と言うよりも、指揮者とオケの問題だろうと思う。

 休憩後はメンデルスゾーンの交響曲第5番。番号は5番だけど、作曲されたのは2番目の交響曲だ。演奏頻度は少なく、私もナマで聴くのは初めてである。これも噛み合わせの悪い演奏だった。たしかに名手が揃っていて、各パートを取り出せば綺麗なのだろうと思うけど全体のアンサンブルが取れていない感じだ。とくに第1楽章が顕著で、バラバラな感じだった。曲が進むにつれて改善されていって、メンデルスゾーンらしい旋律が美しく浮かび上がったけど、全体的な完成度で言えば東京の常設オケの方が水準が高い演奏が出来るのではないかと思ってしまった。

 かなり辛口の感想になってしまったけど、これがSKOの実力かというとそうではないと思う。これ指揮者の責任でもなく、オケの責任でもない。SKOが臨時編成のオケとして宿命的に持っている属性なのだろうと思う。それについては明日以降、書きたい。

(ステージ写真は、信濃毎日新聞よりの転載です)