マダム・バタフライ

(文中の敬称は省略しています・このページの舞台写真はチラシより転載したものです)


●97/05/22 東京で最も上演回数が多いオペラというと、たぶん「椿姫」と「蝶々夫人」ではないだろうか。前者は藤原歌劇団が毎年1月にレパートリー・システムで上演しているため、このシリーズで5人(延べ6回)のヴィオレッタを聴いてきた。しかし藤原歌劇団以外の公演は意外と少なくて、私自身は89年の二期会以外は聴いたことがない。そして「椿姫」の演出は、オーソドックスなものばかりだ。

 対して蝶々夫人は二期会、藤原はもとより、リリアホール・オープニングや文化村のプロダクションなど様々な演出が行われてきた。オーソドックスな粟国演出(藤原歌劇団:林康子)や栗山演出(リリア=二期会:佐藤しのぶ)のものはもちろんだけど、前衛的な新解釈を持ち込んだものも多い。90年2月には二期会が三谷礼二の卓越した演出に、音楽ではミラノ初演版と慣用版の良いところを折衷した「二期会版」を作り上げ、このときは島崎智子と大倉由紀枝を聴くことが出来た。また94年には藤原歌劇団が井田邦明を演劇界から大抜擢し、抽象化した舞台をもって素晴らしい演出を披露、さらに佐藤ひさらの絶唱を得て素晴らしい舞台を作り上げた(林康子は途中でキャンセル)。そして95年からは東急文化村のプロダクションでは完全なミラノ初演版を採用し、イギリスの演出家デイビット・バウントニーが舞台を第二次世界大戦後に移すという新演出を見せた。

 「蝶々夫人」のいわゆる「慣用版」だと、アメリカ軍人ピンカートンに裏切られた女性の同情を得ようとするオペラに見られることも多いけど、「ミラノ初演版」に接すると「慣用版」でカットされたセリフの多さに驚かされる。そのセリフの存在によって「ミラノ初演版」では、蝶々さんはピンカートンとの結婚、キリスト教への改宗、ピンカートンに裏切られた結果の死の選択が、より主体的なものとして描かれる。さらにピンカートンのセリフは日本人への人種差別が強調され、悪役としての立場が強く押し出される。最後のシーンでは、毅然として死に挑む蝶々さんと動転して狼狽するピンカートンとの対比は印象的だ。音楽的には「慣用版」の方が練り込まれているけど、演劇的要素では「初演版」の方が説得力がある。

 この文化村オペラシリーズでは、「ミラノ初演版」にバウントニーの演出が加わることで、まったく新しい蝶々さんのイメージが生まれた。バウントニーは、物珍しさを狙って時代を戦後に移したわけではない。私たちの同時代へ移すことにより、観る者により緊迫した問題提起を行おうとしているのだ。ピンカートンが行ったことは、もしかしたら現代の日本人がアジアの人々に行っていることかもしれない。これはあくまでも想像に過ぎないけど、バウントニーはそのことまで考えて、蝶々さんの花嫁衣装を中国風にしてソリストにチェン・スーを起用したのかもしれない。そう考えるとすべての演出のつじつまが合うのである。自ら命を絶った蝶々さんの刃を手に取った子供が、その刃をピンカートンに向けるエンディングは、観る者に鮮烈なメッセージとして突きつけられる。

 歌手では第一キャストに中国生まれのチェン・スー、第2キャストに島崎智子が組まれた。チェン・スーは95年に聴いたけど、残念ながら私の好みの歌手ではなかった。声そのものは鈴が鳴るように美しいし声量もあるのだけど、歌い回しに癖があり演技力が大味なのだ。海外で公演をするなら同じアジア人だから自然に見えるのかもしれないけど、日本人の蝶々さんを見慣れている私たちから見るとどうしても不自然に見えてしまう。このときは斬新な演出を十分に理解できなかったこともあって、だいぶ不満が多い公演となってしまった。その翌年(96年)には島崎智子を聴いたのだけど、声そのものの魅力では若干落ちるものの、きめ細かい表現力と演技力を考えるとチェン・スー以上に素晴らしい蝶々さんを演じた。今年の公演もそうだったけど、「第2キャスト」と言うことで空席が多かった。たぶん6割くらいの入りだったと思うけど、私は蝶々夫人という演目に限っては島崎智子の方が上だと思う。

 まわりを固めるキャストも、第2キャストの方が決して劣るわけではない。スズキの与田朝子、ピンカートンの持木弘、シャープレスの牧野正人など、バランスがとれた配役である。あえて問題点を挙げると、どの歌手も決め手に乏しく、声そのものの魅力という点では今一つ。でも傑出したスター歌手の存在が舞台を壊してしまうこともあるので、この舞台のように演出が重視されているオペラの場合はバランスやアンサンブルを重視した方が良い結果を生むことが多いと思う。管弦楽を担当したのは若杉弘指揮の東京フィルハーモニー交響楽団。若杉はワーグナーやR・シュトラウスなどのドイツものでは評価は高いけど、歌の要素が大きいイタリアものでは評価が分かれる。私は決して悪くはないと思うけど、歌手と同様に決め手に欠ける伴奏だったと思う。

 歌手とか管弦楽などの音楽的要素では「すごく良い!」とは言えないけど、それがこの「マダム・バタフライ」の評価を下げる理由にはならないだろうと思う。東京は音楽の「消費量」としては世界最大級の都市だと思うけど、「生産」という側面から見るとお世辞にも新しい音楽を生み出している都市とは言えない。この演出はウエルッシュ・ナショナル・オペラを通じてイギリスにも紹介されていると聞く。そうだとすれば数少ないメジャーな演目の東京生まれの演出となるわけでである。来年以降、この文化村オペラシリーズでどのような企画が進んでいるのかは知らないけど、願わくば新しい音楽の生産を目指した企画を進めて欲しい。