ヒコックス=新日本フィル

(文中の敬称は省略しています)


●97/03/05 新日本フィルの97年春季定期演奏会のスタートを飾るコンサートで、場所は渋谷のオーチャードホール、指揮はイギリスのリチャード・ヒコックス。でも指揮者やオケよりも、登場したピアニスト、アナトール・ウゴルスキが強烈な印象を残した演奏会だった。

 私が好きなピアニストといえばチェルカスキーを筆頭に挙げるけど、氏が鬼籍には入ってしまった今、ライヴで聴ける最も注目すべきピアニストは間違いなくウゴルスキである。私がこのピアニストを初めて聞いたのは多分1993年、とあるレコード売場でBGMとして流されていたムソルグスキー「展覧会の絵」である。これまでに聴いたことのない演奏・・・これはライヴで聴かなければ!、と直感した。同年9月にウゴルスキは来日し、サントリーホールでリサイタルを聴いたのだが、これはもう凄まじい演奏会だった。

 信じられないほどの超絶技巧、エッジの効いた美しい音色、そしてなによりも高い次元に昇華した独自の解釈は衝撃的でさえあった。特にベートーヴェンのピアノソナタ32番は普通30分くらいで演奏されることが多いけど、ウゴルスキはなんと40分以上の演奏時間を費やした。もはやベートーヴェンの音楽とは言い難いのだけど、決してゲテモノ的な演奏なのではない。ベートーヴェンを素材にして、ウゴルスキ独自の世界を構築しているのである。アンコールに弾いたのが、なんとストラヴィンスキーのペトルーシュカの第3楽章。この曲をアンコールピースにすることは常識的にはないと思うのだけど、彼は今まで見たこともない超絶技巧を駆使してオーケストラ以上の色彩感をピアノから引き出した。

 ただし、このタイプのピアニストの多くは、コンチェルトでは実力を発揮できないことが多い。このような個性に対峙できる指揮者とオケが少ないのである。没個性でついていくのがやっとな伴奏では、ソリストの音を埋没させてしまうマイナス効果だけしか発揮しない。チェルカスキーもリサイタルでは素晴らしい演奏を数多く残したけど、コンチェルトでは伴奏に足を引っ張られたことが多かった。今日のウゴルスキが弾いたのはスクリャービンのピアノ協奏曲。聞き慣れない曲なので、ウゴルスキがどのような解釈をしたかはコメントできないけど、突き抜けてくるような音量もあるし、第2楽章のアンダンテでは右手で鍵盤を転がすように美しい音を見せてくれて、表現力の奥行きの深さを感じさせてくれた。伴奏はまぁまぁと言ったところだと思うけど・・・ピアノの音しか聴いていなかったのでパス。

 拍手に応えてアンコールにスクリャービンの「左手のためのノクターン」と「練習曲第12番」。「左手のためのノクターン」は1993年のリサイタルでもアンコールに弾いたけど、素晴らしいの一言だ。ブラインドで聴いたとしたら片手で弾いているとは思わないだろう。機会があったら、ぜひともリサイタルを聴くべきピアニストだと思う。

 他にはブリテンの「シンフォニア・ダ・レクイエム」と、後半にはエルガーの「エニグマ変奏曲」が演奏された。ヒコックスはあまり細かいところにはこだわらずに、音楽の流れを大事にするタイプの指揮者かもしれない。この演奏会を通じて音色の美しさを感じることができなかったのは残念だけど、「エニグマ」は変奏の移り変わりによるコントラストが鮮やかに描き出されて、最後の第14変奏のフィナーレではオーケストラを聴く醍醐味を味わうことができた。



 新日本フィルはこのシーズンの定期が終了したら、フランチャイズを「すみだトリフォニーホール」に移し、2プログラムの定期演奏会を行うことになる。オーチャード定期も残されるけど、プログラムは「すみだ」のA/Bプログラムのどちらか片方が選択される演奏会となるため、あくまでもメインは「すみだ」の定期演奏会だ。上野の東京文化会館は98年度は一年を通して改修工事が行われるため、今シーズンの定期演奏会が最後となる。(ちなみの東京文化会館で定期を行っている都響のAシリーズは、非公式ながら池袋の東京芸術劇場に会場を移すという話である) ファンの間では今でも最も良い音のホールとして評価され、交通の便が良い東京文化会館から離れていくのは寂しい気持ちもあるけど、NJPも新たな飛躍のチャンスである。

 すでに新ホールでの秋季定期演奏会プログラムも公表され、小澤征爾はもちろん、ロストロポーヴィッチによるショスタコーヴィッチ・フェスティバルや「戦争レクイエム」、朝比奈隆のベートーヴェン第九、若杉弘の演奏会形式による「ヘンゼルとグレーテル」など、意欲的な曲目が並べられている。私も「オーチャード定期」から「すみだ定期」に移行する予定で、今日、申し込んだのだけど、希望者が多いらしく一番安い席だとA/Bの両シリーズを確保出来ないかもしれないとのことである。継続でこの有様だから、新規での募集はかなり狭き門になるかもしれない。