このページには、1995年12月に死去した名ピアニスト、シューラ・チェルカスキーに関する情報を集めます。


  私がチェルカスキーというピアニストに接したのは1988年2月11日の木曜日午後6時でした。その時、私にとっての関心は初めて入るカザルスホールであって、チェルカスキーは無名のピアニストの一人でしかありませんでした。しかしこの日のコンサートが終わったとき、私はすっかりチェルカスキーの音楽の虜になっていました。セザール・フランク「前奏曲・コラールとフーガ」で始まったコンサートは、2曲目のシューマン「謝肉祭」で前半の頂点を迎えました。ここで奏でられた音楽は、80歳に迫ろうとする老人のそれではなく、若々しく、そして何からも自由な音符の飛翔でした。一見、即興的でロマンチックな歌いまわしに目を奪われます。しかし長いピアノ人生に裏づけられた音楽性から奏でられる演奏からは、不自然さをまったく感じることは出来ません。さらに色彩感の見事さは、それまで私が経験した音楽と比する事すら出来ない素晴らしさで、ピアノという楽器からフル・オーケストラ以上の音のパレットを引き出し、そしてピアノを音の宝石箱に変えてしまう、そういう魔法を見ているような気持ちにさせられました。この日のコンサートの後半は、ラフマニノフ「コレルリの主題 による変奏曲」、ホフマン「万華鏡」、ショパン「ノクターン15番」「舟歌」、リストの「グノーの歌劇ファウストからワルツ」。そのすべてが音の宝石に変わって、私の思い出の宝箱に眠っています。この日のコンサートは、私にとってかけがえのない思い出です。

 チェルカスキーの音楽は、リヒテルのそれと対比すると良く分かります。リヒテルは、曲目を当日まで発表せず、さらにホールの照明を可能な限り暗くしてステージ上はスポットライトだけ。そして哲人のような容貌で、ロダンが彫刻を彫るような音楽を構築していきます。それは聞き手に対し、最大限の集中力を要求します。対してチェルカスキーはエンターティナー・タイプの演奏家で、その音楽は即興演奏的、絶妙な呼吸をしながら聞き手を緊張感から解放していきます。その真価はライヴで発揮され、その音楽は聞き手を幸福にする力を持っています。逆に言うならば、彼の音楽を録音から聞き取ろうとしても、きっと本来の半分も伝わって来ないといえるかもしれません。チェルカスキーはリヒテルの音楽と比べても優るとも劣らない内容を持っているにもかかわらず、彼の知名度が今一つなのは、録音によって音楽が伝わりにくいという問題と、即興演奏派特有の問題である演奏会の出来不出来があったというところにあったのではないかと思います。

 チェルカスキーは88年以降毎年来日し、私も毎年コンサートに通いました。リサイタルだけでも89年3月10日、90年2月15日、91年2月17日、92年2月21日、93年2月9日(以上何れもサントリーホール)、93年2月13日王子ホール、94年2月10日名古屋電気文化会館、2月15日王子ホール、そして最後となったのは今年4月11日王子ホールでした。コンチェルトではNJPで2回、大阪フィルと1回、すべてあわせると13回のステージと接してきました。

  それぞれに思い出深いものがありますが、94年2月10日の名古屋公演は、演奏会終了後、楽屋に行ってサインをもらって握手をしたことが特に印象が残っています。小柄な体に似合わない大きくて毛むくじゃらの手には、ピアノによって刻み込まれた年輪がありました。この手から奏でられる音楽を、もう二度と聴くことは出来なくなりました。私にとって、チェルカスキーを聴く喜びは、音楽を聴く喜びそのものでした。もう今後、チェルカスキーのように、なにからも自由で、そして何よりもロマンチックなピアニストが現れる事はないかもしれません。だからチェルカスキーを聴いた思い出は、何よりも大切な記憶として、このホームページに残しておきたいのです。


<チェルカスキー・ファンの方からのメール紹介>

 恥ずかしながら、LIVEを一度も聞かずにチェルカスキーは逝ってしまいました。これじゃファンなんて言えないですね。昔から巨匠として知っていましたが、今でもCDは3枚しか持っていません。そのうちの一枚に、全部LISZT(SHURA CHERKASSKY Live Volume5)を弾いているのがあります。その中で バッハ−リスト 幻想曲とフーガト短調のフーガが信じられないぐらいの緻密さで弾いているのです。まるで一つ一つの声部を重複録音して作った音楽のようですが、LIVEなのです。
 こんなチェルカスキーを、何度も来日していたのですから聞いておけば良かったと後悔ました。 チェルカスキーの思い出。1985年12月ホロヴィッツのリサイタル(カーネギーホール)にチェルカスキーが聴きに来ていました。席も私の近くだったので休憩時間も何気なく側にいました。彼は小柄でしたがガッチリした体つきで、マッチョで小柄なホフマンの体つきとよく似ているのです。きっと同じような体つきを気に入って弟子にしたんだ、なんて思ったりしましたが、そんなことあるわけ無いですね。
でもこの師弟、演奏が全然違いますが、お互いに巨匠だから当然です。似ているのは体つきだけで良かったと思いました。 それにしても、90年代に入りホロヴィッツに続き19世紀のビルトゥオーソ最後の巨匠は逝ってしまいました。
 しかし、19世紀の香りを実際に味あうことが出来た私たちはとてもラッキーだと思います。(1999/11  speedさん)


 はじめまして。私がチェルカスキーのコンサートへ行ったのは1992年でした。当時,彼のことはあまり詳しくなく,「高齢ではあるが,未だにテクニックが素晴らしい」との噂を聞き,ソロリサイタルへ行ったのでした。難曲ばかりのプログラムにもかかわらず,素晴らしいテクニックでしたが,何よりも感動したのは彼の演奏からにじみ出てくる「温かい人柄」でした。そして,何曲も重ねられるアンコールに多くの人が無意識に立って拍手をしていたのを今でも覚えております。あのような素晴らしいコンサートは最初で最後のような気がします。(2000/03 石原さん)


 上のチラシは1976年来日時の大阪公演のもの、下は1986年にロンドンのフェスティバルホールで行われたヤン・パスカル・トルトゥリエ指揮フィルハーモニア管弦楽団との共演のチラシで、曲目はラフマニノフの第3協奏曲。この資料はあるチェルカスキー・ファンの方から頂きました。この場を借りて厚く御礼申し上げます。